松本奎堂 天誅組三総裁の一人である。
松本奎堂は1832年(天保2年)三河刈谷藩士の松本印南惟成の次男として生まれている。
幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられたという。
父が刈谷藩用人兼漢学甲州流軍学師範という環境から、11歳で名古屋の尾張藩儒臣奥田桐園に入門。
秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だったそうで、豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていたと伝えられている。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、1852年(嘉永5年)藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。
江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固刑に処せられている。
三河国刈谷は徳川家の地元、発祥の地の近くである。
藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵りような人であり、地元では変人扱いであった。
譜代藩出身で昌平阪学問所で舎長まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
1855年(安政2年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した松本は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開くことになる。
松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。
非常な教養人であったが、型破りな人物でもあったようで、頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていったのだ。
1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
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1862年(文久2年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣や吉村虎太郎らによる浪士の挙兵計画に参加するが、寺田屋事件で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。
この時、浪士の中には青蓮院宮を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。
後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
1863年(文久3年)長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行する。
だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立する。
17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木源内の首を刎ねて兵を挙げた。
挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。
職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に8・18の政変が起きて京都の政情は一変してしまう。
攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされたのだ。
これにより孤立した天誅組。
天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。
9月には周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退が続く。
そのうちに十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨うことになる。
そのころ松本は右目が悪化し、元々見えない左目と合わせて盲目となっていた。
吉村も脚を負傷して歩行困難になり一行から脱落していく。
9月24日、天誅組残党は鷲家口で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。
主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
足ノ郷峠を下りてきた松本奎堂、藤本鉄石ら一行は御殿越しといわれる峠を越えて庄屋松本清兵衛宅に到着する。
ここで夜を明かし、翌日2時過ぎに清兵衛宅を出た。
盲目の松本奎堂は地元の者を雇いカゴに乗って出発した。
清兵衛宅を出た藤本鉄石と松本は途中で別れ、駕籠にのっている松本が遅れはじめたからだった。
藤本は先にこの地蔵堂前を過ぎ伊勢街道へと向かっていた。
松本奎堂のカゴは地元の者にかつがれていたが、近くの清兵衛宅で紀州藩兵によるトキの声と銃声がなった途端、彼らはカゴを放り出し逃げていってしまった。
盲目の松本奎堂は従者の村上万吉と共に山に入り潜伏した。
しかしすぐに彦根藩士に見つかり、村上万吉とともに銃殺された。
松本奎堂 享年33歳。
松本奎堂歌碑
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藤本鉄石 天誅組三総裁の一人である。
藤本鉄石は1816年(文化13年)岡山藩の片山佐吉の四男として生まれている。
後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、1840年(天保11年)に脱藩して京都へ出る。
何故に脱藩して京に出たのかは詳しい史料がないために不明だが、この時代の多くの者がそうした状況下にいたので別段不思議なことではないですね。
脱藩した藤本は諸国を遊歴して書画・和歌・漢詩の修行をしていく。
書画は北宋、後に南宋に転じ山水花鳥が最も巧みだったという。その一方で長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。
1843年(天保14年)東北から江戸、中国そして九州を遊歴し、各地の名士、豪傑、奇傑らと交わり、少年時代に藤本鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は大いに影響を受けたと言われている。
そんな中、1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の混沌とする国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。
1854年(安政元年)伏見奉行内藤正繩に招かれてその部下を教え、伏見京町の私塾である言志塾で学問、武道、兵法を教えはじめる。
しかし、井伊直弼の独断による日米条約調印に藤本は憤り、激しい尊攘論を主張するようになっていく。
1862年(文久2年)薩摩藩 島津久光が率兵上京することになり、世間の志士達はこれを倒幕のための上洛だと勝手に解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した。
藤本もこの動きに加わることになる。
だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。
結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還されてしまうのだ。
1863年(文久3年)京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。
ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。
容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。
この時の藤本の真意は何だったのかは不明だ。
同年8月13日、孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると、藤本は吉村虎太郎、松本奎堂とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。
藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行し、14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。
一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。
17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。
この浪士たちは後に天誅組と称されるようになるのだ。
天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。
天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。
だが、直後の18日になって8・18の政変が起きて政情は一変してしまう。
三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされ、大和行幸の詔は偽勅とされ中止となってしまう。
犠牲になったのは突然、孤立無援となった天誅組だ。
頼るものもなくなってしまった天誅組は本陣を要害の天ノ辻に移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。
しかし、26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。
9月には周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢、装備も貧弱で、寄せ集めの軍団は次第に追い詰められていく。
藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。
天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みるが、三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。
24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口で紀州・彦根藩兵と遭遇。
藤本は敵中突破に成功したのが、逃げ延びることを潔しとせず、翌25日、弟子の福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけるのだ。
不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮は多勢に無勢、奮戦もむなしく壮絶な死を遂げることになる。
藤本鉄石 享年48歳であった。
藤本鉄石遺詠
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篤姫 第24回 宮崎あおい「許すまじ、篤姫」
ハリスとの会見を控えた将軍 徳川家定は、篤姫に不安を打ち明ける。
家定が相談してくれたことがうれしい篤姫は、将軍としての権威を失わない対面の方法を、はりきって考えはじめる。
一方、本寿院は篤姫への反感を募らせていた。
篤姫が一橋慶喜を次の将軍に推すため、家定にとりいっていると考えたのだ。
滝山は慶喜の世継ぎに反対している井伊直弼が江戸に戻ってくることを本寿院に伝え、心強い味方になってくれるから心配ないと告げる。
会見が間近に迫ったころ、ハリス側が将軍と立ったままで対面したいと申し入れて来た。
篤姫はその無礼に怒りつつも、ある妙案を思いつく。
会見当日、会場に入ったハリスは仰天する。
家定が何枚もの畳を重ねた上に待ち受けていたのだ。座った姿勢でも頭がハリスより高くなるようにと篤姫が考えた作戦は大成功し、家定の将軍としての威厳は保たれ、会見は無事に終了する。
しかし本寿院は、篤姫が慶喜を会見の席に同席させていたことを知り、ついに怒りを爆発させる。ぎくしゃくしていた嫁と姑の関係は、この時、決定的に決裂してしまう……。
会見当日、会場に入ったハリスは仰天する。
家定が何枚もの畳を重ねた上に待ち受けていたのだ。座った姿勢でも頭がハリスより高くなるようにと篤姫が考えた作戦は大成功し、家定の将軍としての威厳は保たれ、会見は無事に終了する。
しかし本寿院は、篤姫が慶喜を会見の席に同席させていたことを知り、ついに怒りを爆発させる。ぎくしゃくしていた嫁と姑の関係は、この時、決定的に決裂してしまう……。
桂小五郎の義弟 来原良蔵。
1829年(文政12年)長州藩の福原市左衛門の子として生まれ、来原良左衛門の養子となる。
藩校明倫館にて学び、1851年(嘉永4年)江戸に行き、安積艮斎に従学している。
翌年には萩に戻ってくるのだが、江戸において吉田松陰の東北遊歴を支援して譴責を受け、一方、桂小五郎らと交わり、桂の妹ハルを妻としている。
1853年(嘉永6年)6月ペリーが浦賀に来航すると江戸に赴き、浦賀の形勢を視察し、森重武兵衛に水軍砲術を学ぶことになる。
おそらく外国艦隊を見て脅威を感じたのだろう、1854年(安政元年)には来島又兵衛らと忠義会を結んで誓約し、ついで相模警衛の任についた。
浦賀奉行支配組与力の中島三郎助の門に入って合薬製造掛となり、操銃を習ったり洋式軍学を積極的に学んでいく。
1856年(安政3年)周布政之助らの嚶鳴社復興に参加し、1858年(安政5年)御手当方内用掛となり、長崎へ出張して長崎海軍伝習に参加。
1859年(安政6年)明倫館助教兼兵学科総督となり、山田亦介と軍制改革に尽した。
また、長州藩の西洋式銃陣操練に当たり、保守派(旧来の銃砲、弓、鑓、兵術家)の妨害にあいつつ、軍制規則制定、教練の実行などに功績を挙げた。
西洋銃陣の改革のため1860年(万延元年)御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。
1862年(文久2年)徳地宰判の民情を視察、2月公武周旋のため熊本と鹿児島へ出張、3月上京して留まり、長井雅楽の航海援略策を除くため奔走した。
しかし、江戸に行って横浜の外国公使館の襲撃を謀ったが失敗、藩世子に過激をいさめられてしまう。
また幕府より長井雅楽の航海遠略策に賛同したと批判されるという半ば志と違うことで責めをうけてしまう。
結果、長州藩江戸藩邸の自室で自刃してしまうことになる。
来原良蔵 享年34歳。
彼の死を誰よりも悲しんだのは義兄でもある桂小五郎であった。
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心癒す美しい非日常のある宿 本陣平野屋花兆庵


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偽りの明治維新Price740 円
幕末維新の個性(8)Price2,730 円
吉田松陰や高杉晋作の影のサポーター的存在の周布政之助。
1823年(文政6年)父・周布吉左衛門の五男として生まれる。
生まれてすぐに父と長男があいつぐように歿し、ほかの兄たちも他家への養子が決まっていたため、政之助は生後6ヵ月で末弟ながら周布家の家督を相続することになるのだ。
当然藩への届出も間に合わず、151石が減ぜられて68石になってしまう。
その後は順調に明倫館に通い、20歳のとき居寮生となり、また来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成。
1847年(弘化4年)24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢される。
しかし周布は天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵であった坪井九右衛門派の椋梨らと対立することになるのだ。
周布は母親と親戚だったためもあるのか、村田清風に師事していたので、村田清風の路線を継ぎ財政再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力していく。
また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心であった。
藩内の派閥争いに敗れて、一時は失脚した。しかし、その実直な性格から多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立った。
1858年(安政5年)安政の大獄中、藩使として朝廷に密かに入り、開国止むを得ないことを入説した航海遠略策で幕府との協調策を進めたのだが、幕政改革に限界をみた周布は桂小五郎らと反対派に回った。
松陰の過激な行動を制するために色々と奔走もしている。
獄に入れることにより幕府の目に付かないような努力までしているのだ。
周布は本来は、攘夷の愚を知る開国論者であり、長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一のためにあえて攘夷を唱え、1861年(文久元年)長井雅楽の航海遠略策を阻止しようとして勝手に任地を離れたために、翌1862年(文久2年)逼塞を命ぜられる。
周布は、酒癖が悪かったともいわれ、また愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こし、たびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、1862年に土佐藩前藩主山内容堂に対し暴言を吐き謹慎となった。その際、名を「麻田公輔」と改めた。
1863年(文久3年)8・18の政変で藩が京都を追われた後、死を覚悟して大坂に行き、事の収拾に当たろうとしたが、藩命で召還され、1864年(元治元年)酒によって入獄中の高杉晋作を訪ねた罪でまた逼塞を命ぜられることになる。
禁門の変の時には上京には猛反対をしたのだが止めることは出来ず、結果長州藩は大敗し、第1次長州征伐に繋がっていってしまう。
桂が行方不明、久坂などの松陰の門弟たちが多く死んでしまったことにより、責任を感じながらも事態の収拾に奔走した。
しかし、藩政の実権を次第に椋梨ら反対派へ奪われることとなり、その責任を感じた周布は切腹をしてしまう。
周布政之助 享年42歳。
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その後は順調に明倫館に通い、20歳のとき居寮生となり、また来原良蔵や松島剛三らと嚶鳴社を結成。
1847年(弘化4年)24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢される。
しかし周布は天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵であった坪井九右衛門派の椋梨らと対立することになるのだ。
周布は母親と親戚だったためもあるのか、村田清風に師事していたので、村田清風の路線を継ぎ財政再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力していく。
また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心であった。
藩内の派閥争いに敗れて、一時は失脚した。しかし、その実直な性格から多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立った。
1858年(安政5年)安政の大獄中、藩使として朝廷に密かに入り、開国止むを得ないことを入説した航海遠略策で幕府との協調策を進めたのだが、幕政改革に限界をみた周布は桂小五郎らと反対派に回った。
松陰の過激な行動を制するために色々と奔走もしている。
獄に入れることにより幕府の目に付かないような努力までしているのだ。
周布は本来は、攘夷の愚を知る開国論者であり、長州藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策にも一時同調したが、久坂玄瑞ら松下村塾系の攘夷派若手藩士らに説得され、藩論統一のためにあえて攘夷を唱え、1861年(文久元年)長井雅楽の航海遠略策を阻止しようとして勝手に任地を離れたために、翌1862年(文久2年)逼塞を命ぜられる。
周布は、酒癖が悪かったともいわれ、また愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こし、たびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、1862年に土佐藩前藩主山内容堂に対し暴言を吐き謹慎となった。その際、名を「麻田公輔」と改めた。
1863年(文久3年)8・18の政変で藩が京都を追われた後、死を覚悟して大坂に行き、事の収拾に当たろうとしたが、藩命で召還され、1864年(元治元年)酒によって入獄中の高杉晋作を訪ねた罪でまた逼塞を命ぜられることになる。
禁門の変の時には上京には猛反対をしたのだが止めることは出来ず、結果長州藩は大敗し、第1次長州征伐に繋がっていってしまう。
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