西郷隆盛−−−記事一覧
● 『島津斉彬の教え』
● 『錦江湾に投身する』
● 『勝海舟との出逢い』
● 『徳川慶喜と錦の御旗』
● 『勝海舟との会談』
● 『加治屋町の英雄』
● 『やっぱり薩摩の英雄』
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先日鹿児島に行って来ました。
鹿児島に着くとどこに行っても西郷さんです。
薩摩の人達がどれだけ西郷さんを大切にしているかがとても良くわかります。
鶴丸城の二の丸にある図書館のそばに西郷さんの像がある。
当日は雨にもかかわらず、多くの人が記念写真を撮っていた。
若い女性の姿が多いのもビックリした。
その後維新ふるさと館などを見学して回ったのだが、ホント薩摩には英雄が多い。
大久保利通、小松帯刀、東郷平八郎、大山巌、海江田信義など数え上げれば限がないくらいに多くの人物がこの薩摩の出だ。
この薩摩には郷中教育なるものがある。
これは年上の者が年下の者を教育し、指導していくことである。
西郷や大久保たちもこの郷中教育の中成長してきたのだ。
現代社会において殺伐した人間関係のが引き起こす諸問題は多い。
だからこそ、いまこの様な人間臭い付き合いが必要に感じる。
鹿児島の人達のこのような風土は引き継がれており、いつ行っても心温まる歓迎を受ける。
人間はもう少し人間らしく生きたほうがいい!そう感じさせてくれる街である。
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当日は雨にもかかわらず、多くの人が記念写真を撮っていた。
若い女性の姿が多いのもビックリした。
その後維新ふるさと館などを見学して回ったのだが、ホント薩摩には英雄が多い。
大久保利通、小松帯刀、東郷平八郎、大山巌、海江田信義など数え上げれば限がないくらいに多くの人物がこの薩摩の出だ。
この薩摩には郷中教育なるものがある。
これは年上の者が年下の者を教育し、指導していくことである。
西郷や大久保たちもこの郷中教育の中成長してきたのだ。
現代社会において殺伐した人間関係のが引き起こす諸問題は多い。
だからこそ、いまこの様な人間臭い付き合いが必要に感じる。
鹿児島の人達のこのような風土は引き継がれており、いつ行っても心温まる歓迎を受ける。
人間はもう少し人間らしく生きたほうがいい!そう感じさせてくれる街である。
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1827年(文政10年)12月7日鹿児島城下、下加冶屋町山之口馬場で生まれた西郷隆盛。
通称は吉之助である。
西郷の家は「御小姓与」という身分で、士分では下から2番目の身分の下級藩士あった。
少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。
西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。
まさに偉人の巣窟のような凄いところである。
西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。
西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。
二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。
西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。
大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。
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少年時代に西郷は、喧嘩で右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。
このことが幼少期に武芸ではなく、学問に励むきっかけとなるのです。あとになってみれば、西郷にとってはよかったのかもしれません。
西郷達が住む甲突川近辺は下級武士が多く住んでいた地域で、西郷の育った加治屋町方限は、甲突川東岸ぞいの地区で、今の加治屋町にあたり、当時約七十戸があったらしい。
この狭い方限から、西郷をはじめ、大久保利通、吉井友実、伊地知正治、篠原国実、村田新八、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛、などたくさんの偉人が出ている。
まさに偉人の巣窟のような凄いところである。
西郷はある年齢になると造士館という藩の学校に通います。
薩摩には郷中教育という独特の文化がありました。
郷中教育とは、青少年を「稚児」と「二才」に分けて、勉学・武芸・山坂達者を通じて、先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする組織でした。
その学舎の教育基盤は武道に励はげみ、心身を鍛きたえ、 廉恥れんちを重んじ、礼節を大事にする知・徳・体の調和のとれた人格形成にありました。
西郷達はそんな厳しい郷中教育のなかで鍛えられ成長しました。
16歳になると、西郷は藩の郡方書役助に任命されます。
薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習だったようです。
西郷は右ひじのケガのために武芸をあきらめ学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官の補助、といった役目に任命されたのです。
二十歳のころ、下加治屋町郷中の二才頭に選ばれ、誠意をもって後輩を指導していくのです。
自分たちも先輩から教えられたように、次は西郷達の番です。
西郷はココでリーダーとしての資質を身につけていったのではないでしょうか。
西郷の所には何人もの後輩たちが教えを受けにきました。
明治維新にはこの方限から、数多くの偉人が出たが、そのほとんどが西郷の影響を強く受けて育ったといわれています。
大久保利通・有村俊斎たちと論読会をつくり「近思録」や「伝習録」などを共同で研究もしたようです。
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徳川慶喜の蟄居により幕府の後事を任された勝海舟。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
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鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を破った東征軍は西郷隆盛を総大将に、勢いに乗り関東を目指し進軍していた。
これに対し部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、さっさと蟄居してしまった徳川慶喜。
徳川慶喜の蟄居により幕府の後事を任された勝海舟。
勝の心は「チッ、最後に面倒なことだけ押し付けやがって・・・ 」ってな気持ちだったのでしょうか?
神戸海軍操練所に倒幕の者がいたことにより勝はしばらく蟄居させられていたのである。
そこに来て今度はやばくなってきたから、「お前なんとかしろ」状態で任されている。
勝に抵抗していたといわれる小栗上野介もこの頃には居なく、幕政は完全に瓦解していたときである。
そんな勝は東征してくる新政府軍に使者を送ることから始まった。
幕府倒壊となったいま、いかに血を流さすに時代を変え、列国の属国になることを避けるのかが大事であった。
勝の使者、山岡鉄太郎は駿府において「東征大総督府下参謀」となっていた西郷隆盛に会う。
そして江戸に入って来た西郷は薩摩藩邸において勝海舟と会談するのである。
1864年(元治元年)以来の再会である。
また翌日も会談は続き、話し合いの末
西郷は「委細承知知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らひ難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんの御返答を致さう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきませう」と言い、これによって江戸は戦火から免れることになったのです。
これには天璋院篤姫や皇女和宮も徳川家の助命嘆願をしていることも若干影響はしているのだろう。
当時の巨大都市江戸。
この江戸を焼け野原にしてしまっては新政府が樹立したときに、列国に立ち向かうだけの経済力を養うことは出来ず、ましてや無駄に多くの血を流してしまっては、まさに列国の思う壺であるという勝と西郷の利害関係は一致し、日本におけるこの難局を乗越えることが出来たのだ。
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