中岡慎太郎−−−記事一覧
● 『武市瑞山との出逢い』
● 『長州にて』
● 『薩長同盟締結に向けて』
● 『陸援隊じゃ』
● 『近江屋襲撃』
● 『岩倉具視との共謀』
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中岡慎太郎の晩年に色濃くその影響を与えた人物・・・・岩倉具視。
1866年長州と薩摩が薩長同盟により結ばれると時代は急速に倒幕に向かって動き始める。
それまで日和見のような状態で動いていた土佐藩は焦りを覚える。
このままでは薩摩と長州から取り残される・・・・
危機感を感じた土佐藩は薩長と強い繋がりを持つ、土佐脱藩者の坂本龍馬、中岡慎太郎の脱藩を許し、支援することを決めるのだ。
龍馬は海援隊を、そして中岡は陸援隊を組織し動き始めた。
中岡の陸援隊は京都の本部を置き、土佐藩の遊撃軍的な存在であった。
その頃中岡は、大宰府の五卿と京都の公卿との間の提携を考え奔走していた。
しかし、訊ねる公卿たちは皆、時勢に疎く、中岡は落胆していたのである。そんなとき橋本鉄猪が中岡に岩倉に会う事を勧めた。
岩倉具視は当時、皇女和宮を降嫁を推進した人物として尊攘派から仇敵として見られていた。
実際に中岡もこの橋本の誘いに
「前中将は佐幕の大奸ではないか。これと王政復古の大策を計議するのは薪を抱いて火を救うようなものだ。まことに危険である」と言ったという。
橋本の熱心な誘いに中岡は心を動かされ岩倉に会う事を決める。
そして岩倉に会った中岡はこう評している。
「はからずも公卿の中にこのような人物がいたとは。私が前中将に会えたことは、天の助けだ。私の宿題はすでに達することが出来た」と語った。
その後中岡は岩倉をたびたび訪ね、親交を深め王政復古について相談していく。
そして中岡は坂本龍馬を連れ岩倉に会いに行くことになる。
後年、岩倉は「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋(橋本)子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」と回顧している。
もし、中岡が岩倉に逢っていなければ・・・もっと凄惨な明治維新になっていたかもしれない。
それを助けた橋本鉄猪も隠れた功労者の一人であろう。
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1866年長州と薩摩が薩長同盟により結ばれると時代は急速に倒幕に向かって動き始める。
それまで日和見のような状態で動いていた土佐藩は焦りを覚える。
このままでは薩摩と長州から取り残される・・・・
危機感を感じた土佐藩は薩長と強い繋がりを持つ、土佐脱藩者の坂本龍馬、中岡慎太郎の脱藩を許し、支援することを決めるのだ。
龍馬は海援隊を、そして中岡は陸援隊を組織し動き始めた。
中岡の陸援隊は京都の本部を置き、土佐藩の遊撃軍的な存在であった。
その頃中岡は、大宰府の五卿と京都の公卿との間の提携を考え奔走していた。
しかし、訊ねる公卿たちは皆、時勢に疎く、中岡は落胆していたのである。そんなとき橋本鉄猪が中岡に岩倉に会う事を勧めた。
岩倉具視は当時、皇女和宮を降嫁を推進した人物として尊攘派から仇敵として見られていた。
実際に中岡もこの橋本の誘いに
「前中将は佐幕の大奸ではないか。これと王政復古の大策を計議するのは薪を抱いて火を救うようなものだ。まことに危険である」と言ったという。
橋本の熱心な誘いに中岡は心を動かされ岩倉に会う事を決める。
そして岩倉に会った中岡はこう評している。
「はからずも公卿の中にこのような人物がいたとは。私が前中将に会えたことは、天の助けだ。私の宿題はすでに達することが出来た」と語った。
その後中岡は岩倉をたびたび訪ね、親交を深め王政復古について相談していく。
そして中岡は坂本龍馬を連れ岩倉に会いに行くことになる。
後年、岩倉は「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋(橋本)子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」と回顧している。
もし、中岡が岩倉に逢っていなければ・・・もっと凄惨な明治維新になっていたかもしれない。
それを助けた橋本鉄猪も隠れた功労者の一人であろう。
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中岡慎太郎は陸援隊を組織する一方、大政奉還に向かう龍馬と幾度も話をしていたのだろう。
この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も慎太郎もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組。新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、慎太郎にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、慎太郎は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
そのうちお腹が空いたので、岡本健三郎に「軍鶏」を買いにいかせる。
これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
3人の資格が龍馬・慎太郎に襲い掛かる。
両名共に刀を抜くまもなく斬りつけられるのだ。
龍馬は額を斬られほぼ即死状態、慎太郎も後頭部をやられ重症だった。
瀕死の龍馬は慎太郎に声をかける
「石川大丈夫か?わしはダメじゃ、額をやられちょる・・・・」と。
事態を聞き駆けつける陸援隊士・田中顕助、慎太郎を連れ出し看病するが、2日後に慎太郎はこの世を去る。享年29歳 まだまだすべきことを残して先に逝ってしまった。
慎太郎が死ぬ間際、同士に「岩倉卿に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴え、最後の最後まで今後の日本のことを憂いていた。
慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
「今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、人の心の中にある」という言葉を残している。
これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
北川村にて村人のために奔走した日々から初まり、常に心の中に義を持ち続けた人だった。
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そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、慎太郎は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
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これと入れ替わるように、「十津川郷士」を名乗る人間が龍馬を訪れる。
当時十津川郷士は陸援隊にも関与しており、龍馬とも懇意だったため、籐吉は信用してこの者を中に入れてしまうのだ。
2階へ案内しようとする籐吉を背後から斬りつけ、2階の龍馬の部屋へと流れ込む侵入者。
3人の資格が龍馬・慎太郎に襲い掛かる。
両名共に刀を抜くまもなく斬りつけられるのだ。
龍馬は額を斬られほぼ即死状態、慎太郎も後頭部をやられ重症だった。
瀕死の龍馬は慎太郎に声をかける
「石川大丈夫か?わしはダメじゃ、額をやられちょる・・・・」と。
事態を聞き駆けつける陸援隊士・田中顕助、慎太郎を連れ出し看病するが、2日後に慎太郎はこの世を去る。享年29歳 まだまだすべきことを残して先に逝ってしまった。
慎太郎が死ぬ間際、同士に「岩倉卿に伝えてください。王政復古のことは貴下の力による!」と訴え、最後の最後まで今後の日本のことを憂いていた。
慎太郎の絶命をきいた岩倉具視は「自分は片腕をもがれた」と声を上げて泣いたと言われています。
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これは当に中岡慎太郎自身の心であろう。
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この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
中岡慎太郎は岩倉具視と三条実美と提携させ組織的にも倒幕へ向けてすすめていく。
しかし、龍馬も中岡もこのころには京都ではかなり目を付けられる存在になっており、元新撰組の伊東甲子太郎が「新撰組が狙っているから気を付けろ」と忠告をしに来ている。
見廻り組、新撰組、紀州藩士、京都は龍馬、中岡にとっては最も危険な場所になっていた。
そんな中、あの悲劇は起きる。
1867年11月15日、中岡は、新撰組につかまっている土佐の同士が釈放され、その身柄の引き取りについて京都河原町に下宿している谷守部を訪れに行きました。しかし、谷が不在だったため、近くの龍馬を訪れたとのです。
倒幕まであと僅かに迫ったいたことと、龍馬の無血で政権を変える方針など、両者は若干の方向性が違っていたこともあり、話は盛り上がっていた。
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龍馬、原点消ゆ。Price2,415 円
京都に遊ぶ Price2,940 円
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1866年1月21日薩長同盟を締結させた中岡慎太郎と坂本龍馬。
1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は慎太郎であった。
慎太郎、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月慎太郎、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて慎太郎、三吉は下船している。
この船の中、慎太郎は次なる展開を構想する。
それは長州。薩摩にもう1枚両藩の独走をとめ、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、慎太郎は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、慎太郎の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
容堂もこれを取り入れ、時代は大政奉還へと動きはじめだしていた。
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1月24日龍馬が寺田屋で襲撃をされる。
寺田屋のお龍の気転で難を免れた龍馬だったが負傷した体を癒し介抱していたお龍と結婚することになる。
2月29日、媒酌人は慎太郎であった。
慎太郎、龍馬のほんの僅かな平和な時間だっただろう。
そして3月慎太郎、龍馬、お龍、三吉慎蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かう。
途中、下関にて慎太郎、三吉は下船している。
この船の中、慎太郎は次なる展開を構想する。
それは長州。薩摩にもう1枚両藩の独走をとめ、さらに強い倒幕の絆をつくるには、強力な藩が必要だと考える。
中岡慎太郎が目をつけたのが・・・・土佐であった。
1867年、慎太郎は早速行動する。
まず、乾退助と会談する。このころには乾はすっかり勤王思想に目覚めており、密かに活動をしていた。
そこに中岡慎太郎からの話しを聞き、乾はこれに乗るのだ。
乾は後藤象二郎を説得、土佐を勤王へと進めさせる一方、龍馬達と手を結ぶことを勧める。
後藤としても薩摩、長州に後れを取り戻したかったこともあり、両者は会談することになる。
1月13日 坂本龍馬 長崎清風邸で後藤象二郎と会見。
これにより土佐藩は龍馬、慎太郎の脱藩の罪をゆるし、龍馬の亀山社中と土佐藩の土佐商会を合わせ海援隊を発足、隊長を坂本龍馬とした。
5月21日 中岡慎太郎は乾退助 西郷隆盛、小松帯刀と倒幕決行を会談し、薩土密約を結ばせる。
これを受け6月 9日 坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎と乗船し京へとむかうのだ。この船中で龍馬は「船中八策」を後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
6月22日 京三本木料亭にて薩摩藩、西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、乾退助、福岡孝悌が会談し薩土盟約を結ぶのだ。
慎太郎は「議論周旋も結構だが、近日中に必ず薩長による開戦になるのだから、武器をとって戦う覚悟がなければ空論に終わる」として京都にて龍馬の海援隊と同じく、土佐藩の補助をうけ陸援隊を発足させる。
隊士の中には田中顕助、木村弁ノ進らの名前があり、倒幕間近の風潮もあり血気盛んだった、そのころ、先の龍馬の提案した船中八策を後藤は土佐の山内容堂に進言。
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