坂本龍馬−−−記事一覧
● 『日本の英雄 坂本龍馬誕生』
● 『千葉道場』
● 『土佐勤王党と脱藩』
● 『勝海舟を斬るのか』
● 『西郷隆盛との出逢い』
● 『薩長同盟に向け奔る』
● 『仇敵 後藤象二郎と会う』
● 『先に行くぜよ』
● 『龍馬と桂小五郎』
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幕末の人気者坂本龍馬と桂小五郎。
この二人性格が全然違うのだが、何故か仲が良かったらしい。
おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。
この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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おそらく自由奔放な典型的なB型の坂本龍馬と、緻密で繊細、石橋を叩いて渡るようなA型の桂小五郎。
合うはずがないのだが、時代がそうさせたのか桂は龍馬を頼りにしているし、龍馬は桂を尊敬していた。
この二人は対照的なようでいて、共通点がいくつかあるのだ。
まず桂も龍馬も「剣の使い手」。
龍馬は北辰一刀流・千葉道場で、桂は神道無念流・斎藤道場で一時期、ともに塾頭を務めているほどである。
しかし、この二人が人を切ったというところを聞いたことがない。
剣を抜かない、つまり人を殺さない剣客?であったのだ。
二人からは悲壮感が感じられないのだ、岡田以蔵や田中新兵衛たちのような人斬りには、やはり血の臭いを感じるのだが、龍馬も桂も人を切っていないので悲壮感や血生臭さを感じることがない。
土佐を脱藩して自らの思想のもとに自由に駆け回る龍馬を、桂はおそらく羨ましく思っていたのではないだろうか。
土佐藩の下級藩士として生まれた龍馬にとって、土佐で生きていては自分の器に収まらなかったのだろう。また土佐独特の身分差別が龍馬の人生観を変えていたとも思われる。
かたや桂は長州の正規の藩士として育ってきていたので、身分差別などを気にしたことはなかっただろう。
その辺が後々、薩長同盟のおりの薩摩と長州がお互いに話しを切り出さず悶々とした日を過ごすことになる原因であろう。
龍馬の「薩摩じゃ、長州じゃ、言うとる場合か。そげな小さきことを言うとってはなん。」と言った言葉に繋がっているように思う。
桂は長州藩士として、いかに自藩を守るかということが主だった。
その中で尊皇攘夷、倒幕と言う答えを導き出し、これに傾倒していく事で長州藩を存続させる道を見ていたのである。
このことは薩摩の西郷隆盛も同じであろう。
薩摩の優位な方策を選び、その中に薩長同盟があり、倒幕に向かっていったように感じる。
桂はもしかしたら龍馬のように自由な生き方がしたかったのではないだろう。
桂は吉田松陰と同時期に海外脱出を企てていたし、その後も、留学させてほしいという希望を藩政府に伝えている。
しかし藩の外交を担当している桂の密留学を藩が許すはずがなかったし、若し許されても同志たちが止めたであろう。
龍馬のほうは、貿易商社「亀山社中」を設立し、海援隊の隊長となって「ユニオン号」を操り、薩長間の貿易や下関の幕長戦にも、高杉晋作に頼まれたとはいえ参加したりている。
桂は龍馬に自分のない部分を求めていたのだろう。
自らの窮屈な器の中で生きなければならないことが苦しかったのかもしれない。
龍馬の自由に動きまわり思想の元に行動する姿に自分を重ねていたのだろうか。
桂は龍馬を友として、同志として信頼し、頼りにしているしていた。
それが薩長同盟の龍馬の裏書に繋がるのだろう。
桂は龍馬のその自由な発想と行動力と実行力に恋をしていたのかもしれない。
しかし、龍馬は志半ばでこの世をさる。
残された桂はさぞかし心細かったであろう。
ともに激動の時代を歩んできた同志たちが周りからいなくなり、残された自分自身は周りからの要望や期待に推されながら自由に動けなくなっていく。
桂と龍馬は相対する性格ながら求めていた先は同じ自由だったのかもしれない。
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坂本龍馬はその日京都にいた。
いつものように一日が終わろうとしていた。
1867年 11月15日 京都河原町にある醤油商・近江屋。
坂本龍馬はそれまで材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、先の寺田屋での襲撃の件もあり、場所を移していた。
目と鼻の先には土佐藩邸があるところである。
その近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあった。
であるが、日頃から人目を気にしない龍馬。昼間もウロウロしていたのだろう。
見廻り組に容易に発見される。
おりしも14日風邪にて体調を崩していた龍馬は土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
夕方、中岡慎太郎が訪ねてくる。
二人が話し合いをしていると、十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉に取りつぎを頼み、藤吉は十津川郷士は龍馬と関わりが多い事から安心したのか2階に案内する。
2階に上がる途中に藤吉は不意討ちを食らう形で斬られる。
そのまま乱入者は2階の龍馬と慎太郎のいる部屋へ押し入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。
北辰一刀流の龍馬が鞘さえも抜く間もなかった。
中岡は後ろを見せていたので当然無理だとしても、正面にいた龍馬が居抜けなかったのだ。
頭部に二創を受けた龍馬は絶命、中岡は翌々日の17日に亡くなる。
龍馬は死ぬ間際まで慎太郎に向かい
「石川大丈夫か?わしゃいかんゼヨ、脳をやられちょる」と慎太郎を偽名で呼んでいた。
こうして時代の変革の原動力となった坂本龍馬は大政奉還を見る事無く先に逝ってしまう。
享年33歳。
生きていれば日本はどうなったのであろうか。
龍馬暗殺の件については、諸説がありマチマチである。
いまここで敢えて言うことはしないが、時代を見誤った者たちの仕業であることは間違いない。
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いつものように一日が終わろうとしていた。
1867年 11月15日 京都河原町にある醤油商・近江屋。
坂本龍馬はそれまで材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、先の寺田屋での襲撃の件もあり、場所を移していた。
目と鼻の先には土佐藩邸があるところである。
その近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあった。
であるが、日頃から人目を気にしない龍馬。昼間もウロウロしていたのだろう。
見廻り組に容易に発見される。
おりしも14日風邪にて体調を崩していた龍馬は土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
夕方、中岡慎太郎が訪ねてくる。
二人が話し合いをしていると、十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉に取りつぎを頼み、藤吉は十津川郷士は龍馬と関わりが多い事から安心したのか2階に案内する。
2階に上がる途中に藤吉は不意討ちを食らう形で斬られる。
そのまま乱入者は2階の龍馬と慎太郎のいる部屋へ押し入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。
北辰一刀流の龍馬が鞘さえも抜く間もなかった。
中岡は後ろを見せていたので当然無理だとしても、正面にいた龍馬が居抜けなかったのだ。
頭部に二創を受けた龍馬は絶命、中岡は翌々日の17日に亡くなる。
龍馬は死ぬ間際まで慎太郎に向かい
「石川大丈夫か?わしゃいかんゼヨ、脳をやられちょる」と慎太郎を偽名で呼んでいた。
こうして時代の変革の原動力となった坂本龍馬は大政奉還を見る事無く先に逝ってしまう。
享年33歳。
生きていれば日本はどうなったのであろうか。
龍馬暗殺の件については、諸説がありマチマチである。
いまここで敢えて言うことはしないが、時代を見誤った者たちの仕業であることは間違いない。
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坂本龍馬はその日京都にいた。
いつものように一日が終わろうとしていた。
1867年(慶応2年)11月15日 京都河原町にある醤油商・近江屋。
坂本龍馬はそれまで材木商・酢屋の二階を借り、海援隊・京都事務所を置いて拠点としていたが、先の寺田屋での襲撃の件もあり、場所を移していた。
目と鼻の先には土佐藩邸があるところである。
その近江屋の裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあった。
であるが、日頃から人目を気にしない龍馬。昼間もウロウロしていたのだろう。
見廻り組に容易に発見される。
おりしも14日風邪にて体調を崩していた龍馬は土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
夕方、中岡慎太郎が訪ねてくる。
二人が話し合いをしていると、十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉に取りつぎを頼み、藤吉は十津川郷士は龍馬と関わりが多い事から安心したのか2階に案内する。
2階に上がる途中に藤吉は不意討ちを食らう形で斬られる。
そのまま乱入者は2階の龍馬と慎太郎のいる部屋へ押し入り、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部を斬りつけた。
北辰一刀流の龍馬が鞘さえも抜く間もなかった。
中岡は後ろを見せていたので当然無理だとしても、正面にいた龍馬が居抜けなかったのだ。
頭部に二創を受けた龍馬は絶命、中岡は翌々日の17日に亡くなる。
龍馬は死ぬ間際まで慎太郎に向かい
「石川大丈夫か?わしゃいかんゼヨ、脳をやられちょる」と慎太郎を偽名で呼んでいた。
こうして時代の変革の原動力となった坂本龍馬は大政奉還を見る事無く先に逝ってしまう。
享年33歳。
生きていれば日本はどうなったのであろうか。
龍馬暗殺の件については、諸説がありマチマチである。
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同盟を成功させた坂本龍馬は寺田屋に投宿した。
安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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