桂小五郎の巧みな政治手腕と、多くの志士の助けもあり薩長同盟は締結された。
しかし幕府は、長州藩の武備恭順や大村益次郎(村田蔵六)たちによる秘密貿易を口実として、第二次長州征討を強行してくる。
事前に近代的な軍制改革が施されていた長州軍の志気は、極めて高かく、長州訪問中の坂本龍馬は感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。
そこに薩摩から銃が調達されたのだから幕府軍は太刀打ちすることが出来なかったようである。
初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた桂小五郎は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、艦隊による幕軍への艦砲射撃によって形勢が見事逆転。
その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。
大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。
芸州口を担当していた井上聞多率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせている。
島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。
しかしこの第2次長州征伐のさい、高杉晋作が病のためこの世を去ります。
桂にとっては辛く、悲しい別れでした。
この勝利のあと、長州は薩摩とともに倒幕の兵を挙げることになる。
いよいよ時代は大きくうねりを上げて動き始めた瞬間だった。
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しかし幕府は、長州藩の武備恭順や大村益次郎(村田蔵六)たちによる秘密貿易を口実として、第二次長州征討を強行してくる。
事前に近代的な軍制改革が施されていた長州軍の志気は、極めて高かく、長州訪問中の坂本龍馬は感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。
そこに薩摩から銃が調達されたのだから幕府軍は太刀打ちすることが出来なかったようである。
初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた桂小五郎は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、艦隊による幕軍への艦砲射撃によって形勢が見事逆転。
その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。
大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。
芸州口を担当していた井上聞多率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせている。
島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。
しかしこの第2次長州征伐のさい、高杉晋作が病のためこの世を去ります。
桂にとっては辛く、悲しい別れでした。
この勝利のあと、長州は薩摩とともに倒幕の兵を挙げることになる。
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桂小五郎の巧みな政治手腕と、多くの志士の助けもあり薩長同盟は締結された。
しかし幕府は、長州藩の武備恭順や大村益次郎(村田蔵六)たちによる秘密貿易を口実として、第二次長州征討を強行してくる。
事前に近代的な軍制改革が施されていた長州軍の志気は、極めて高かく、長州訪問中の坂本龍馬は感激して薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたほどであった。
そこに薩摩から銃が調達されたのだから幕府軍は太刀打ちすることが出来なかったようである。
初戦は手薄だった大島口への幕軍による奇襲攻撃によって開始され、珍しく慌てた桂小五郎は小倉口の指揮官だった高杉晋作を急遽大島口に回らせ、艦隊による幕軍への艦砲射撃によって形勢が見事逆転。
その後は第二奇兵隊の活躍によって長州側の勝利が確定した。
大村益次郎が指揮官だった石州口・芸州口は、隣接する津和野藩の手引きや、広島藩の長州征討への消極的態度にも助けられ、長州側があっさり勝利を収めた。
芸州口を担当していた井上聞多率いる長州軍は幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく安芸藩まで慌てさせている。
島口・芸州口・石州口の三カ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も高みから徹底抗戦し続けていた肥後藩士たちの戦意喪失により長州側の全面的圧勝が確定する。
しかしこの第2次長州征伐のさい、高杉晋作が病のためこの世を去ります。
桂にとっては辛く、悲しい別れでした。
この勝利のあと、長州は薩摩とともに倒幕の兵を挙げることになる。
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桂小五郎が戻ってきた長州藩は近代化に向けて躍進します。
まず、村田蔵六の指揮のもと軍の近代化が着々とすすめられていました。
村田は刀槍の時代から、戦闘では銃と火砲が威力を発揮して勝敗を決する時代になっていることを先の馬関戦争や4カ国艦隊の砲撃で身にしみて分かっていたのです。
長州藩は西洋軍制の導入にともなって、旧式の銃からより命中精度の高いミニエー銃への転換を図ろうとしていました。外国からの武器の輸入は禁止されているうえに、幕府と敵対している長州藩ですから公然と武器の購入はできませんでした。
ちょうどその頃、坂本龍馬が馬関を訪れており、龍馬は桂に薩長同盟について説くのです。
同じ頃、薩摩の西郷隆盛を説得しに中岡慎太郎が向かっており、中岡と同行していた土方は途中で馬関に寄ったのです。そこで龍馬が居ることを知り、二人で桂を説得しました。
薩摩藩の過去における反長州の行動についての反感があり、桂小五郎も長州藩内の「薩摩憎し」の雰囲気をそうとうに意識していました。
現に久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎など多くの同志たちの命がすでに散っていったのです。
龍馬、慎太郎の説得の甲斐もあり西郷が馬関に向かうことになりました。
馬関で西郷を待ちながら、まさに薄氷を踏む思いで薩長間の和解交渉に臨もうとしていたことがわかります。
桂は馬関にて西郷の来るのを待っていたのですが・・・・・複雑な思いの中待っていた桂の前に現れたのは中岡慎太郎だけでした。
西郷は大久保から「至急上京するように」との報がはいり、西郷は馬関への寄港を中止して、大坂に直行してしまったのです。
面目を失った桂は憤慨します。当然です。
それを坂本、中岡両名が必死に止めます。
桂の答えは、「今度は薩摩の方から来て欲しい、そうでない場合はわが藩は同盟には反対だ」と言い放ち馬関をあとにしました。
桂にはほかに気がかりな問題がありました。
俗論党の幹部が今に至るまで処分されていないことです。
桂は意を決して辞表を提出し、藩政府は驚きます、ついこの前戻ってきたばかりで、桂が戻ってきて以来藩政も落ち着いてきていたのです。
桂に替わる藩政指導の適任者がいなかったのです。
すぐに藩主が辞表の撤回を求め、俗論党の処分が速やかに行なわれました。
これによって幕府との妥協の途を断ち切った長州藩は前に進むしかなくなったのである。
馬関で西郷に逃げられた坂本と中岡は急ぎ京都に向かい西郷を訪ねる。
龍馬は面白い案を提供するのだ。
それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ
これに西郷は同意し、このことを踏まえて坂本は桂を説得しにするのだ。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京を決意するのだ。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
桂にとってもこの時点で幕府が第2次長州征伐を計画しているとのウワサを聞いていたので、この話には悪いものではないことは分かっていたでしょう。
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非、薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 桂小五郎の複雑な心境の中、薩長同盟は締結される。
このとき桂は坂本龍馬に対し、薩摩は信用できないからこの盟約書の裏に龍馬の裏書が欲しいと求めるのでした。
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九州焼酎ネットは、鹿児島、宮崎を中心とした九州各地の蔵元より集めた本格焼酎(乙類)を二百種類以上取り揃え、地元でしか入手できない隠れた限定酒や、焼酎ブームで人気の幻、プレミアム銘柄まで、蔵元希望価格の正価販売通販できる焼酎専門店です。



まず、村田蔵六の指揮のもと軍の近代化が着々とすすめられていました。
村田は刀槍の時代から、戦闘では銃と火砲が威力を発揮して勝敗を決する時代になっていることを先の馬関戦争や4カ国艦隊の砲撃で身にしみて分かっていたのです。
長州藩は西洋軍制の導入にともなって、旧式の銃からより命中精度の高いミニエー銃への転換を図ろうとしていました。外国からの武器の輸入は禁止されているうえに、幕府と敵対している長州藩ですから公然と武器の購入はできませんでした。
ちょうどその頃、坂本龍馬が馬関を訪れており、龍馬は桂に薩長同盟について説くのです。
同じ頃、薩摩の西郷隆盛を説得しに中岡慎太郎が向かっており、中岡と同行していた土方は途中で馬関に寄ったのです。そこで龍馬が居ることを知り、二人で桂を説得しました。
薩摩藩の過去における反長州の行動についての反感があり、桂小五郎も長州藩内の「薩摩憎し」の雰囲気をそうとうに意識していました。
現に久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎など多くの同志たちの命がすでに散っていったのです。
龍馬、慎太郎の説得の甲斐もあり西郷が馬関に向かうことになりました。
馬関で西郷を待ちながら、まさに薄氷を踏む思いで薩長間の和解交渉に臨もうとしていたことがわかります。
桂は馬関にて西郷の来るのを待っていたのですが・・・・・複雑な思いの中待っていた桂の前に現れたのは中岡慎太郎だけでした。
西郷は大久保から「至急上京するように」との報がはいり、西郷は馬関への寄港を中止して、大坂に直行してしまったのです。
面目を失った桂は憤慨します。当然です。
それを坂本、中岡両名が必死に止めます。
桂の答えは、「今度は薩摩の方から来て欲しい、そうでない場合はわが藩は同盟には反対だ」と言い放ち馬関をあとにしました。
桂にはほかに気がかりな問題がありました。
俗論党の幹部が今に至るまで処分されていないことです。
桂は意を決して辞表を提出し、藩政府は驚きます、ついこの前戻ってきたばかりで、桂が戻ってきて以来藩政も落ち着いてきていたのです。
桂に替わる藩政指導の適任者がいなかったのです。
すぐに藩主が辞表の撤回を求め、俗論党の処分が速やかに行なわれました。
これによって幕府との妥協の途を断ち切った長州藩は前に進むしかなくなったのである。
馬関で西郷に逃げられた坂本と中岡は急ぎ京都に向かい西郷を訪ねる。
龍馬は面白い案を提供するのだ。
それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ
これに西郷は同意し、このことを踏まえて坂本は桂を説得しにするのだ。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京を決意するのだ。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
桂にとってもこの時点で幕府が第2次長州征伐を計画しているとのウワサを聞いていたので、この話には悪いものではないことは分かっていたでしょう。
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非、薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 桂小五郎の複雑な心境の中、薩長同盟は締結される。
このとき桂は坂本龍馬に対し、薩摩は信用できないからこの盟約書の裏に龍馬の裏書が欲しいと求めるのでした。
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まず、村田蔵六の指揮のもと軍の近代化が着々とすすめられていました。
村田は刀槍の時代から、戦闘では銃と火砲が威力を発揮して勝敗を決する時代になっていることを先の馬関戦争や4カ国艦隊の砲撃で身にしみて分かっていたのです。
長州藩は西洋軍制の導入にともなって、旧式の銃からより命中精度の高いミニエー銃への転換を図ろうとしていました。外国からの武器の輸入は禁止されているうえに、幕府と敵対している長州藩ですから公然と武器の購入はできませんでした。
ちょうどその頃、坂本龍馬が馬関を訪れており、龍馬は桂に薩長同盟について説くのです。
同じ頃、薩摩の西郷隆盛を説得しに中岡慎太郎が向かっており、中岡と同行していた土方は途中で馬関に寄ったのです。そこで龍馬が居ることを知り、二人で桂を説得しました。
薩摩藩の過去における反長州の行動についての反感があり、桂小五郎も長州藩内の「薩摩憎し」の雰囲気をそうとうに意識していました。
現に久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎など多くの同志たちの命がすでに散っていったのです。
龍馬、慎太郎の説得の甲斐もあり西郷が馬関に向かうことになりました。
馬関で西郷を待ちながら、まさに薄氷を踏む思いで薩長間の和解交渉に臨もうとしていたことがわかります。
桂は馬関にて西郷の来るのを待っていたのですが・・・・・複雑な思いの中待っていた桂の前に現れたのは中岡慎太郎だけでした。
西郷は大久保から「至急上京するように」との報がはいり、西郷は馬関への寄港を中止して、大坂に直行してしまったのです。
面目を失った桂は憤慨します。当然です。
それを坂本、中岡両名が必死に止めます。
桂の答えは、「今度は薩摩の方から来て欲しい、そうでない場合はわが藩は同盟には反対だ」と言い放ち馬関をあとにしました。
桂にはほかに気がかりな問題がありました。
俗論党の幹部が今に至るまで処分されていないことです。
桂は意を決して辞表を提出し、藩政府は驚きます、ついこの前戻ってきたばかりで、桂が戻ってきて以来藩政も落ち着いてきていたのです。
桂に替わる藩政指導の適任者がいなかったのです。
すぐに藩主が辞表の撤回を求め、俗論党の処分が速やかに行なわれました。
これによって幕府との妥協の途を断ち切った長州藩は前に進むしかなくなったのである。
馬関で西郷に逃げられた坂本と中岡は急ぎ京都に向かい西郷を訪ねる。
龍馬は面白い案を提供するのだ。
それは当時第2次長州征伐を前に武器弾薬に悩んでいた長州藩に薩摩が武器弾薬を提供する。
当然、長州は拒否をするだろうが、同じく兵糧に困っていた薩摩藩に長州から米を引き換えに渡せば両藩共に対面を保てる。というのだ
これに西郷は同意し、このことを踏まえて坂本は桂を説得しにするのだ。
しかし、桂は先の西郷のスッポカシの件もあり、乗り気ではない。
そこであの過激な高杉晋作が説得をするのだ。
「桂さん、長州1藩の力じゃどうもできん。先の馬関での戦で分かったじゃろ?ここは苦しくても薩摩と手を結び、この日の本を守らねばならんぞ。今ならまだ長州に味方してくれる他藩もある。今のうちに薩摩と手を結んで他藩も引き込むんじゃ」
晋作をはじめ龍馬、井上聞多も再三説得し、ついに桂は「公命下るに至る、よって余(木戸)恥を忍び意を決し」とし上京を決意するのだ。(このころ藩命により桂から木戸へ名を変える)
桂にとってもこの時点で幕府が第2次長州征伐を計画しているとのウワサを聞いていたので、この話には悪いものではないことは分かっていたでしょう。
1866年(慶応2年)1月8日、木戸は京都へ入り、薩摩藩家老・小松帯刀の屋敷で西郷に会った。
ところが連日宴会で互いに国事、天下の形勢を論じ合い、肝心の同盟の話には一切触れず終いだった。
1週間遅れで京都に入った龍馬は当然もう同盟が成していると思い薩摩藩邸にいくと、まだ同盟を結んでいない旨を聞かされる。
驚いた龍馬は長州藩邸の桂を訪ねた。
「天下のために連合を周旋し、両藩の要人を会わせたのにくだらない感情におぼれて意地を張り合うとは何事じゃ!」といい。
桂は
「今、苦境にあえぐ長州が薩摩に低頭してまで危険に引きずり込むことができましょうや。薩摩が自ら手をさしのべてくれてこそ、我らは救いを乞いもしよう。このまま長州は滅びてもよいのです。薩摩が生き残って幕府を討ってくれるなら、我々に憾みはないでありましょう」と説いた。
ようするに長州は薩摩の気持ちはありがたいが、滅びんとしている長州の巻き添えになってくれとは言えないというのだ。
龍馬はこの桂の言葉に感動し、薩摩藩邸に戻り、西郷、小松らに長州の胸のうちを語り、何とか薩摩から長州を助けてやってくれんかと説いた。
そして龍馬は「こげな小さな維持の張り合いをしちょる場合か!今までこの日の本の国のために死んでいった者たちは、ただの犬死になってしまうがか?」と訴えた。
ことのことにより、西郷は是非、薩摩から長州に同盟をお願いしたいといい。
「薩摩は日本を救うために長州を全面的に援助する」という言葉が出た。
こうして1866年1月21日 桂小五郎の複雑な心境の中、薩長同盟は締結される。
このとき桂は坂本龍馬に対し、薩摩は信用できないからこの盟約書の裏に龍馬の裏書が欲しいと求めるのでした。
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九州焼酎ネットは、鹿児島、宮崎を中心とした九州各地の蔵元より集めた本格焼酎(乙類)を二百種類以上取り揃え、地元でしか入手できない隠れた限定酒や、焼酎ブームで人気の幻、プレミアム銘柄まで、蔵元希望価格の正価販売通販できる焼酎専門店です。
長州藩が俗論派によって牛耳られていたところを高杉晋作が蜂起し、長州は正義派政権が誕生することになります。
ちょうどその頃、出石の広戸甚助が馬関にやってきます。
桂小五郎の安否を知らせに来たのでした。
広戸甚助が会ったのは村田蔵六と伊藤俊輔でした。二人は敢えて晋作には報告をしませんでした。
なぜならば、過激な晋作がこのこと知ればすぐにでも桂を呼び戻しに行こうとして、幕府の目にいつ見つかるか分からなかったからです。
村田と伊藤は桂に手紙を書き、桂に内乱の状況を知らせると共に、即刻の帰国を促しました。
京を離れ長州に逃げてきていた幾松が広戸と一緒に桂を迎えに行くことになります。
そして出石についた幾松はついに桂に再会することができたのでした。
京都の混乱を掻い潜ること9ヶ月、長く感じられて日々でした。
桂は帰藩することを決意します。
そして、広戸甚助、直蔵、幾松をつれて出石を後にしました。
無事に長州に辿り着いた桂。
長州は桂の帰りを待ち望んでいました。
桂小五郎を迎えて、長州藩は混沌とした状況から脱出することになるのです。
そのころ土佐の中岡慎太郎が桂を訪ねてきます。
まずは共に禁門の変にて戦い無事に逃れてきたことを喜び合います。
そして中岡はとんでもない策を打ち出します。「薩長同盟」です。
桂も今の長州藩では到底幕府に勝つことは出来ないことはわかっており、中岡の策を承諾するのです。
桂はすぐに藩庁に使いを出し藩主 毛利敬親と久方の再会を果たします。
そして国政方用談役(参謀)に任じら次々と策を弄していくのです。
その傍ら、逃亡している高杉、井上らを呼び戻します。
桂小五郎を中心に、幕府、外国勢などとの数度にわたる戦闘をくぐり抜けてきた村田、高杉以下の人材が結束して、長州軍の近代化をめざした再編が着々と進められることになったのです。
長州が再び勢いを取り戻しつつあるとき、桂を訪ねて坂本龍馬が訪れるのです。
話は先の中岡が提案した「薩長同盟」の件です。
坂本、中岡の両名はなんとしても薩摩と長州の手を結ばせ、倒幕の源としたかったのです。
しかし長州は、これまで敵対していた経緯もあり、こちらから平身低頭して薩摩に和を請うようなことはできないという感情があったのでしょう。下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏んでいた藩士たちもいたほどですから、長州藩全体の雰囲気は推して知るべしです。このときから、「薩長同盟」実現にいたるまでの桂小五郎の苦闘がはじまります。
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ちょうどその頃、出石の広戸甚助が馬関にやってきます。
桂小五郎の安否を知らせに来たのでした。
広戸甚助が会ったのは村田蔵六と伊藤俊輔でした。二人は敢えて晋作には報告をしませんでした。
なぜならば、過激な晋作がこのこと知ればすぐにでも桂を呼び戻しに行こうとして、幕府の目にいつ見つかるか分からなかったからです。
村田と伊藤は桂に手紙を書き、桂に内乱の状況を知らせると共に、即刻の帰国を促しました。
京を離れ長州に逃げてきていた幾松が広戸と一緒に桂を迎えに行くことになります。
そして出石についた幾松はついに桂に再会することができたのでした。
京都の混乱を掻い潜ること9ヶ月、長く感じられて日々でした。
桂は帰藩することを決意します。
そして、広戸甚助、直蔵、幾松をつれて出石を後にしました。
無事に長州に辿り着いた桂。
長州は桂の帰りを待ち望んでいました。
桂小五郎を迎えて、長州藩は混沌とした状況から脱出することになるのです。
そのころ土佐の中岡慎太郎が桂を訪ねてきます。
まずは共に禁門の変にて戦い無事に逃れてきたことを喜び合います。
そして中岡はとんでもない策を打ち出します。「薩長同盟」です。
桂も今の長州藩では到底幕府に勝つことは出来ないことはわかっており、中岡の策を承諾するのです。
桂はすぐに藩庁に使いを出し藩主 毛利敬親と久方の再会を果たします。
そして国政方用談役(参謀)に任じら次々と策を弄していくのです。
その傍ら、逃亡している高杉、井上らを呼び戻します。
桂小五郎を中心に、幕府、外国勢などとの数度にわたる戦闘をくぐり抜けてきた村田、高杉以下の人材が結束して、長州軍の近代化をめざした再編が着々と進められることになったのです。
長州が再び勢いを取り戻しつつあるとき、桂を訪ねて坂本龍馬が訪れるのです。
話は先の中岡が提案した「薩長同盟」の件です。
坂本、中岡の両名はなんとしても薩摩と長州の手を結ばせ、倒幕の源としたかったのです。
しかし長州は、これまで敵対していた経緯もあり、こちらから平身低頭して薩摩に和を請うようなことはできないという感情があったのでしょう。下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏んでいた藩士たちもいたほどですから、長州藩全体の雰囲気は推して知るべしです。このときから、「薩長同盟」実現にいたるまでの桂小五郎の苦闘がはじまります。
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