吉田松陰とともに幕末の動乱の中に消えていった橋本左内。

福井藩の藩医の長男として生まれた左内は、幼い頃より学問を好み、10歳のときには全65巻の『三国志』を通読し、その意を解したという。
15歳のとき「啓発録」を著し、自己を律する行動指針を定めている。
藩の医学校済世館で漢方医を学び、1849年(嘉永2年)には大坂にある緒方洪庵の適塾で蘭学、西洋医学を学ぶ。
ここでも左内は、ずば抜けた俊才であり、洪庵は「他日、塾名を上げる者は左内。彼は池中の蛟竜である」と評している。
大坂で梅田雲浜や横井小楠らと交流し、帰藩後は藩医としていったんは父の跡を継ぐが、学問への志が止み難く、1854年(安政元年)藩に江戸遊学の許可を得て、坪井信良、杉田成卿に蘭学を学び、あわせて塩谷宕陰らに漢学を師事する。
この時代、みな必死の思いで学ぶことを求めている。
現代では学びは義務なのだが、やはり貪欲に学びたいという気持ちは大事なのだろう。
また、江戸では西郷隆盛、安島帯刀、藤田東湖、佐久間象山など諸藩の碩学、有志とも親交を結んでいる。
安政4年正月、24歳で藩校明道館の学監同様心得に任じられ教育改革に取り組み、いち早く洋学教育の導入を推進。
同年8月、江戸に上がり、藩主 松平春嶽に近侍し、中根雪江と協力して条約問題や将軍継嗣問題に取り組んでいる。
特に将軍継嗣問題では、一橋慶喜を押す一橋派の核となって国事奔走した。
幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
しかし、井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸候を厳罰に処し、松平春嶽も隠居・謹慎を命じられ左内の運動は挫折した。
1858年(安政5年)10月22日、橋本左内は謹慎を命じられ、以後安政の大獄による幽囚生活を送った後、井伊直弼により死罪に決し、1859年(安政6年)10月、26歳の若さで江戸伝馬町獄舎において斬首される。
ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。


福井藩の藩医の長男として生まれた左内は、幼い頃より学問を好み、10歳のときには全65巻の『三国志』を通読し、その意を解したという。
15歳のとき「啓発録」を著し、自己を律する行動指針を定めている。
藩の医学校済世館で漢方医を学び、1849年(嘉永2年)には大坂にある緒方洪庵の適塾で蘭学、西洋医学を学ぶ。
ここでも左内は、ずば抜けた俊才であり、洪庵は「他日、塾名を上げる者は左内。彼は池中の蛟竜である」と評している。
大坂で梅田雲浜や横井小楠らと交流し、帰藩後は藩医としていったんは父の跡を継ぐが、学問への志が止み難く、1854年(安政元年)藩に江戸遊学の許可を得て、坪井信良、杉田成卿に蘭学を学び、あわせて塩谷宕陰らに漢学を師事する。
この時代、みな必死の思いで学ぶことを求めている。
現代では学びは義務なのだが、やはり貪欲に学びたいという気持ちは大事なのだろう。
また、江戸では西郷隆盛、安島帯刀、藤田東湖、佐久間象山など諸藩の碩学、有志とも親交を結んでいる。
安政4年正月、24歳で藩校明道館の学監同様心得に任じられ教育改革に取り組み、いち早く洋学教育の導入を推進。
同年8月、江戸に上がり、藩主 松平春嶽に近侍し、中根雪江と協力して条約問題や将軍継嗣問題に取り組んでいる。
特に将軍継嗣問題では、一橋慶喜を押す一橋派の核となって国事奔走した。
幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
しかし、井伊直弼が大老に就任すると、反対派諸候を厳罰に処し、松平春嶽も隠居・謹慎を命じられ左内の運動は挫折した。
1858年(安政5年)10月22日、橋本左内は謹慎を命じられ、以後安政の大獄による幽囚生活を送った後、井伊直弼により死罪に決し、1859年(安政6年)10月、26歳の若さで江戸伝馬町獄舎において斬首される。
ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。

![]() | 啓発録―付 書簡・意見書・漢詩 (講談社学術文庫 (568)) (1982/07) 伴 五十嗣郎、橋本 左内 他 商品詳細を見る |
![]() | 君よ、志を持って生きてみないか―橋本左内『啓発録』を読む (2005/01) 石川 洋 商品詳細を見る |









