変わり者の人 平野国臣は福岡藩 平野吉郎右衛門の次男として生まれる。
父 吉郎右衛門は千人もの門人を抱える杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられており、国臣は足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子となった。
1845年(弘化2年)江戸勤番を命じられ、江戸に上っている。福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚する。
福岡で漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義に傾倒していく。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航すると再び江戸勤番になり、江戸にて剣術と学問に励んだ。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
1855年(安政2年)からは長崎勤務となり、ここで有職故実家 坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなっていく、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった。
これにはさすがに養家も迷惑し、国臣を咎めるようになり、結局、離縁して平野家へ戻ってしまう。
この時に藩務を辞職して、無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。
簡単にいうと変わり者である。
平野国臣の尚古主義は止むところを知らず、1857年(安政4年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉され、この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。
月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様であった。
しかし、国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。
まさに時代が時代だったのだろう。

1858年(安政5年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。
ところが7月に斉彬は急死してしまう、率兵上洛は立ち消えとなった。
国臣は京で北条右門を通じて西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになる。
国臣の志士としての活動のはじまりで、その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。
結局、西郷たちの工作は失敗し、幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照を薩摩へ逃そうとするが、藩情が一変して難航。
筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩へ向かう。
薩摩に着いた西郷たちであったが、薩摩藩は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、連行を命じるのだ。
暗に斬れという命令であった。
西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。
月照は水死するが、西郷は国臣らに助けられた。国臣は一旦追放され筑前へ帰っていった。
近衛家へ機密文書を返すために再び京へ上るが、そのころには京では安政の大獄が吹き荒れていたために、危険を感じ備中国連島へ隠れ住んだ。
しばらくして下関の豪商白石家へ移り、ここで水戸藩士や薩摩藩士と大老井伊直弼暗殺計画を話し合った。
1859年(安政6年)井伊大老暗殺の機が熟したと感じた国臣は掘次郎とともに福岡へ戻り、藩主黒田斉溥へ大老が暗殺されれば大乱となるから薩摩藩との連携と攘夷のための軍備の充実を求める建白書を提出。
3月3日、桜田門外の変が起こり、井伊直弼は水戸藩士と薩摩藩士によって暗殺された。
平野国臣は下関の白石家で一挙を知り、同志と祝杯をあげ、一方、福岡藩庁は驚愕し、事前に井伊暗殺を知っていた国臣の捕縛を命じた。
国臣は捕縛を逃れ、薩摩へ向かうが叶わず、肥後国高瀬の松村家に庇護され、久留米の勤王志士真木和泉と国事を談じる。両者は意気投合して、国臣は真木の娘のお棹と恋仲になる。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父 島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになる。
失望した平野国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている
仕方なく肥後の松村家に戻った国臣は河上彦斎と交流し、福岡藩の探索を察した国臣は河上の手引きで天草へ移り、「尊攘英断録」を著わした。
平野国臣は公武合体ではもはや時局に対応できず、薩摩藩など大藩が天皇を奉じて討幕の兵を挙げるべしと過激な内容であった。
真木和泉はこれに大いに感銘し、国臣を訪ねた清河八郎などはこれを島津久光に献じるよう勧めている。
国臣は再び薩摩に潜入し、大久保に「英断録」を差し出した。
大久保は旅金10両を与えて帰還させた。
薩摩滞在中に村田新八、美玉三平ら急進派と会談し、一挙の成功を確信した国臣が肥後へ戻ると「島津久光が討幕の兵を挙げる」との噂が広まった。
1862年(文久2年)久光は藩士1000人を率いて上京の途についた。
噂を信じていた尊攘浪士たちは、いよいよ倒幕の兵が挙がると信じ、京、大坂に集まり、不穏な情勢となる。
平野国臣そして薩摩の有馬新七ら誠忠組の急進派もこの機に兵を挙げるつもりでいた。
ところが、久光には討幕の意思などなく、上洛したのは公武合体の運動のためだった。
急進派の動きを知った久光は驚き、直ちに鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた。
4月23日寺田屋事件がおこり、鎮撫に遣わされた奈良原繁、大山綱良ら9人と急進派が寺田屋で斬り合いになり、有馬ら6人が死亡し、他は捕縛され薩摩へ送り返された。
平野国臣はこれより前の4月12日に参勤交代の途上で大坂の近くまで来ていた福岡藩主黒田斉溥へ情勢の不穏と、挙兵への協力を訴える嘆願を提出すべく、藩公行列に出頭していた。
驚いた福岡藩の役人はとりあえず国臣を旅館へ案内し、そこへ薩摩藩の捕吏が押し込み国臣を捕縛。これも浪人嫌いの久光の命令であった。
国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。
尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまう。
しかし、情勢が再び勤王派が有利となると釈放された。
この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。
8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じらる。
天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたためで、19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に会津藩と薩摩藩が結託して8.18の政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまう。
驚いた平野国臣は急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっており、国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策する。
但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画。
長門国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。
この時点ですでに天誅組は壊滅しており、これを知った国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切ることになる。
生野代官所は無抵抗で降服し、農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げていた。
幕府の対応は早く、諸藩が兵を出動させ、これに浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜらる。
13日の夜には主将の沢が逃げ出してしまうのだ。
農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。
国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。
1864年(元治元年)禁門の変で京都が混乱するなか、平野国臣は未決のまま幕吏の判断で獄中において斬首された。
享年37歳だった。
活動の割にはその名が知られていないのはちょっと不思議なところである。
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福岡で漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義に傾倒していく。
1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航すると再び江戸勤番になり、江戸にて剣術と学問に励んだ。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
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17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じらる。
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驚いた平野国臣は急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっており、国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策する。
但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画。
長門国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。
この時点ですでに天誅組は壊滅しており、これを知った国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切ることになる。
生野代官所は無抵抗で降服し、農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げていた。
幕府の対応は早く、諸藩が兵を出動させ、これに浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜらる。
13日の夜には主将の沢が逃げ出してしまうのだ。
農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。
国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。
1864年(元治元年)禁門の変で京都が混乱するなか、平野国臣は未決のまま幕吏の判断で獄中において斬首された。
享年37歳だった。
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野村望東尼1806年(文化3年)福岡藩家臣、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれた。
父 勝幸は馬廻組の士で禄高300石、目付け、詮議奉行等も努めたとある。
文才豊かな女流歌人であると同時に、浦野家代々「武」を持って黒田家に重きを成してきておりこの遺伝と武士的雰囲気の中に育った彼女が皇国のために生涯をささげることに至る。
望東尼は少女時代、この母に裁縫・刺繍などを仕込まれ、文政元年、13歳から15歳の年まで藩の家老林直統の家に行儀見習いに入り、母からの感化と合わせ、普通の女性としての成長していく。
幼い頃から読書を好み、書に通じていたという。
17歳のとき福岡藩士石郡甚右衛門利貫に嫁ぐが、20歳も年長の利貫と上手くいかず半年余で離縁され、1829年(文政12年)24歳のときに野村貞貫の後妻となる。
野村の先妻に3人の子(貞則、鉄太郎、雄之助)があり、望東尼自身も4人の子を産むが皆幼いうちになくなり、貞則は家督相続後自殺をしてしまい、その他も色々で子供にはあまり縁が無かったようだ。
望東尼、野村貞貫とも歌が好きで、共々歌人大隈言道の門に入り、言道を生涯の師とした。
40歳で家督を長男貞則に譲り、夫婦とも平尾向岡の山荘に隠居、息子達も成人したので花鳥風月を友に歌人としての自適の生活を目指したようである。

54歳の時には夫の死に遇い、博多東町妙光寺で受戒剃髪して「招月望東禅尼」と称し、突如上洛する。
上洛した理由ははいろいろ理由はあったようであるが、大阪に居た師の言道に会いたいこともあったようである。
ここで当時一流の人たちとの交流を得、同時に当時の京都は勤王の志士達が頻繁に時勢を説いており、そんな勤皇の志士とも知り合い、交流を重ねていく。
交流する中で次第に望東尼は勤王に傾倒していき、帰藩後、有名な平野國臣や中村円太等筑前の志士たちが望東尼を尋ね、京の志士達への紹介をしたりで、いつのまにか、平尾山荘が勤皇派の巣窟になっていった。
1858年(安政5年)安政の大獄の際には京都の勤王僧 月照が幕吏に追われて福岡に来た時、これを山荘に匿っている。
1864年(元治元年)長州藩を逃げて福岡に来ていた高杉晋作を匿い。
また熊本藩の入江八千兵衛、対馬藩の平田大江ら諸藩の尊攘派を匿っっている。
福岡藩の勤王志士中村円太、月形洗蔵、早川養敬らは、しばしばこの山荘で国事を密議した。
まさに幕末の高台院のような感じである。
攘夷の志士たちの母のような存在になっていた。
そんな中、福岡藩は勤皇派を一網打尽の弾圧を敢行、野村望東尼は捕らえられ、芥屋の近くの「姫島」に流された。
1867年(慶応2年)高杉晋作は、かっての恩義に報いるため福岡藩を脱藩して奇兵隊に入っていた藤四郎ら6人を姫島に送って望東尼を救いだし、下関の白石正一郎宅に匿われている。
翌1868年(慶応3年)高杉晋作は望東尼に見守られながらこの世を去っている。
その後、望東尼は山口から三田尻へ移り薩長連合軍の東上を送るため、防府天満宮に七日間の断食祈願しやがて病に罹り、62歳で生涯を閉じる。
「雲水の流れまとひて花の浦の初雪とわれふりて消ゆなり」が辞世。
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父 勝幸は馬廻組の士で禄高300石、目付け、詮議奉行等も努めたとある。
文才豊かな女流歌人であると同時に、浦野家代々「武」を持って黒田家に重きを成してきておりこの遺伝と武士的雰囲気の中に育った彼女が皇国のために生涯をささげることに至る。
望東尼は少女時代、この母に裁縫・刺繍などを仕込まれ、文政元年、13歳から15歳の年まで藩の家老林直統の家に行儀見習いに入り、母からの感化と合わせ、普通の女性としての成長していく。
幼い頃から読書を好み、書に通じていたという。
17歳のとき福岡藩士石郡甚右衛門利貫に嫁ぐが、20歳も年長の利貫と上手くいかず半年余で離縁され、1829年(文政12年)24歳のときに野村貞貫の後妻となる。
野村の先妻に3人の子(貞則、鉄太郎、雄之助)があり、望東尼自身も4人の子を産むが皆幼いうちになくなり、貞則は家督相続後自殺をしてしまい、その他も色々で子供にはあまり縁が無かったようだ。
望東尼、野村貞貫とも歌が好きで、共々歌人大隈言道の門に入り、言道を生涯の師とした。
40歳で家督を長男貞則に譲り、夫婦とも平尾向岡の山荘に隠居、息子達も成人したので花鳥風月を友に歌人としての自適の生活を目指したようである。

54歳の時には夫の死に遇い、博多東町妙光寺で受戒剃髪して「招月望東禅尼」と称し、突如上洛する。
上洛した理由ははいろいろ理由はあったようであるが、大阪に居た師の言道に会いたいこともあったようである。
ここで当時一流の人たちとの交流を得、同時に当時の京都は勤王の志士達が頻繁に時勢を説いており、そんな勤皇の志士とも知り合い、交流を重ねていく。
交流する中で次第に望東尼は勤王に傾倒していき、帰藩後、有名な平野國臣や中村円太等筑前の志士たちが望東尼を尋ね、京の志士達への紹介をしたりで、いつのまにか、平尾山荘が勤皇派の巣窟になっていった。
1858年(安政5年)安政の大獄の際には京都の勤王僧 月照が幕吏に追われて福岡に来た時、これを山荘に匿っている。
1864年(元治元年)長州藩を逃げて福岡に来ていた高杉晋作を匿い。
また熊本藩の入江八千兵衛、対馬藩の平田大江ら諸藩の尊攘派を匿っっている。
福岡藩の勤王志士中村円太、月形洗蔵、早川養敬らは、しばしばこの山荘で国事を密議した。
まさに幕末の高台院のような感じである。
攘夷の志士たちの母のような存在になっていた。
そんな中、福岡藩は勤皇派を一網打尽の弾圧を敢行、野村望東尼は捕らえられ、芥屋の近くの「姫島」に流された。
1867年(慶応2年)高杉晋作は、かっての恩義に報いるため福岡藩を脱藩して奇兵隊に入っていた藤四郎ら6人を姫島に送って望東尼を救いだし、下関の白石正一郎宅に匿われている。
翌1868年(慶応3年)高杉晋作は望東尼に見守られながらこの世を去っている。
その後、望東尼は山口から三田尻へ移り薩長連合軍の東上を送るため、防府天満宮に七日間の断食祈願しやがて病に罹り、62歳で生涯を閉じる。
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筑前勤王党の原動力であった加藤司書。
ペリー艦隊の浦賀来航と共に全国に沸き起こった尊皇攘夷運動。
筑前にもこの運動は起こっており、加藤司書、月形洗蔵らによって筑前勤王党が結成される。

1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩。
加藤らは攘夷の急先鋒の長州藩の状態を良しとせず、なんとか長州を復帰させようと奔走していた。
そんな中、1864年(元治元年)長州藩は我慢の限界を超えたのか、兵を京に向けて進発する。
世に言う禁門の変である。
結果は長州軍の惨敗で終わり、禁裏に発砲した事で朝敵とされ幕府は第一次長州征伐軍を起す。
福岡藩も藩兵500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、加藤司書がこれを率いて本国を発したが、第一次長州征伐により派兵は中止となった。
加藤は征長軍議に参加するため広島に赴き、征長軍の解散を主張した。
薩摩の西郷隆盛も無断な血を流すのは無益、なんとか穏便にことを済ませたい考え、加藤と謀り、ついに征長総督徳川慶勝に解兵の決定をさせることになる。
この結果、長州滞在中の五卿は筑前太宰府へ移ることとなり、加藤はこれを迎えることに斡旋・奔走し、翌1865年(慶応元年)五卿の太宰府に移るや、その保護に心血を注ぐ。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
時に幕府に長州再征の挙あるを聞き、解兵に奔走し、また西郷に謀って薩長連合を説き、両藩の間に奔走した。たまたま藩内に佐幕派の勢力が台頭し、わずか三ヵ月で家老の職を退いた。
勤王派諸藩の中にあって歴然たる存在感を誇示していたが、幕府の勤王派諸藩に対する圧迫が激しくなると、かつて勤王派に理解を示し、その思想をもって藩の方針たることを容認していた藩主黒田長溥は、藩内佐幕派の巻き返しもあって、藩論を一変させた。
藩主の考えと違う加藤は次第に黒田長溥の不興をかって職を追われる形となる。
加藤の罷免を受けて藩政で力を急速に失った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
加藤司書の最後は罪を得て家に禁固され、博多の天福寺で自刃を命ぜられた。
加藤司書 享年36歳。
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ペリー艦隊の浦賀来航と共に全国に沸き起こった尊皇攘夷運動。
筑前にもこの運動は起こっており、加藤司書、月形洗蔵らによって筑前勤王党が結成される。

1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩。
加藤らは攘夷の急先鋒の長州藩の状態を良しとせず、なんとか長州を復帰させようと奔走していた。
そんな中、1864年(元治元年)長州藩は我慢の限界を超えたのか、兵を京に向けて進発する。
世に言う禁門の変である。
結果は長州軍の惨敗で終わり、禁裏に発砲した事で朝敵とされ幕府は第一次長州征伐軍を起す。
福岡藩も藩兵500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、加藤司書がこれを率いて本国を発したが、第一次長州征伐により派兵は中止となった。
加藤は征長軍議に参加するため広島に赴き、征長軍の解散を主張した。
薩摩の西郷隆盛も無断な血を流すのは無益、なんとか穏便にことを済ませたい考え、加藤と謀り、ついに征長総督徳川慶勝に解兵の決定をさせることになる。
この結果、長州滞在中の五卿は筑前太宰府へ移ることとなり、加藤はこれを迎えることに斡旋・奔走し、翌1865年(慶応元年)五卿の太宰府に移るや、その保護に心血を注ぐ。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
時に幕府に長州再征の挙あるを聞き、解兵に奔走し、また西郷に謀って薩長連合を説き、両藩の間に奔走した。たまたま藩内に佐幕派の勢力が台頭し、わずか三ヵ月で家老の職を退いた。
勤王派諸藩の中にあって歴然たる存在感を誇示していたが、幕府の勤王派諸藩に対する圧迫が激しくなると、かつて勤王派に理解を示し、その思想をもって藩の方針たることを容認していた藩主黒田長溥は、藩内佐幕派の巻き返しもあって、藩論を一変させた。
藩主の考えと違う加藤は次第に黒田長溥の不興をかって職を追われる形となる。
加藤の罷免を受けて藩政で力を急速に失った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
加藤司書の最後は罪を得て家に禁固され、博多の天福寺で自刃を命ぜられた。
加藤司書 享年36歳。
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薩長同盟は坂本龍馬中岡慎太郎の功績と思われていますが、薩長同盟の提案者は月形洗蔵ら筑前勤王党である。

福岡藩内には、月形洗蔵、黒田家重臣・加藤司書らが中心となって、組織する筑前勤王党があった。
特に月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を中止して、「ご忠義の軍勢にて、天下の魁をなさん!」と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。
1861年(文久元年)5月、藩主黒田長溥は、過激な尊攘論を展開する月形らを藩政誹謗の罪で捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他二十数名も厳しく処断した。
世にいう「辛酉の獄」である。時に時代は公武合体へ流れていた。
1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩は薩摩藩に敵意を抱いていた。
長州の品川弥二郎は下駄に「薩賊会奸」と書き付けて踏んで憎悪をあらわにしていた程である。
しかし、そのように敵対意識を持つ薩摩と長州に手を結ばせ武力討幕を実行しようとした人物がいる。
それが月形洗蔵たちである。
薩長和解は、元々は筑前勤王党の月形洗蔵、早川勇によって唱えられた。
彼らはいち早く倒幕するには一藩のみの力では無理であり、当時の強藩である薩摩と長州が手を結ぶ事が大事であると考えた。
しかし、長州藩は地位回復をねらって翌1864年(元治元年)兵を率いて禁門に迫る。禁門の変である。
会津・桑名・薩摩の藩兵と衝突した長州軍だったが、結果は惨敗で敗走した。
これに対して幕府は、朝敵として長州を伐ち、一気に権威を回復しようとし征長の勅許を受け、長州征伐に乗り出す。
そのころ福岡藩では、第一次長州征伐を前にし、保守派と勤皇派が深刻な対立を起こしていったのである。
保守派は、内乱の拡大は外悔を招くから、国内の争乱は絶対に回避すべきだとして、幕府と長州との間をとりもとうとした黒田長溥の方針に対し、長州との接触は、幕府の嫌疑を受けることになるので排除すべきだと主張した。
これに対して勤皇派は、長州征伐の阻止工作を積極的に行うべきであると主張した。
結果は勤皇派の主張が通り、加藤司書・月形洗蔵らが奔走し、西郷隆盛らと連絡を取りながら征討軍総裁に働きかけ、ついには解兵に成功した。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
このとき西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川の両人は密かに西郷に会い薩長和解を説いた。
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後、月形と早川は長州に入り、下関で再度西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ、三条実美ら8・18の政変で都落ちとなった公家たちの復権を実行しようとした。
ところが、筑前勤王党は藩内の弾圧にあう。
1865年(慶応元年)長州再征の命が下ると、五卿に対する幕府の態度が強硬となり、大宰府の五卿もいつ幕府から強制的に引き渡しを要求されるかわからない状況となってきた。
福岡藩では加藤司書が黒田長溥の不興をかって職を追われていたので、潰減の危機にあったのだ。
焦った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
当然ながら月形洗蔵たちが目指した薩長同盟も夢に帰してしまう。
しかし、月形と生前から懇意にしていた土佐脱藩者・中岡慎太郎がこの夢を引き継ぐのである。
中岡は同胞の坂本龍馬にことを話し、月形たちが描いた夢は現実のものとなっていくのである。
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福岡藩内には、月形洗蔵、黒田家重臣・加藤司書らが中心となって、組織する筑前勤王党があった。
特に月形は強硬な尊攘派で、福岡藩に対して、参勤交代を中止して、「ご忠義の軍勢にて、天下の魁をなさん!」と豪語するほどであった。
藩政を尊攘路線に転換することを進言する建白書を藩に提出し、過激な尊攘論を藩内に展開した。
1861年(文久元年)5月、藩主黒田長溥は、過激な尊攘論を展開する月形らを藩政誹謗の罪で捕らえ、月形はじめ主犯格六名を流罪に処し、その他二十数名も厳しく処断した。
世にいう「辛酉の獄」である。時に時代は公武合体へ流れていた。
1863年(文久3年)8・18の政変により京都におげる政治的地位を失墜した長州藩は薩摩藩に敵意を抱いていた。
長州の品川弥二郎は下駄に「薩賊会奸」と書き付けて踏んで憎悪をあらわにしていた程である。
しかし、そのように敵対意識を持つ薩摩と長州に手を結ばせ武力討幕を実行しようとした人物がいる。
それが月形洗蔵たちである。
薩長和解は、元々は筑前勤王党の月形洗蔵、早川勇によって唱えられた。
彼らはいち早く倒幕するには一藩のみの力では無理であり、当時の強藩である薩摩と長州が手を結ぶ事が大事であると考えた。
しかし、長州藩は地位回復をねらって翌1864年(元治元年)兵を率いて禁門に迫る。禁門の変である。
会津・桑名・薩摩の藩兵と衝突した長州軍だったが、結果は惨敗で敗走した。
これに対して幕府は、朝敵として長州を伐ち、一気に権威を回復しようとし征長の勅許を受け、長州征伐に乗り出す。
そのころ福岡藩では、第一次長州征伐を前にし、保守派と勤皇派が深刻な対立を起こしていったのである。
保守派は、内乱の拡大は外悔を招くから、国内の争乱は絶対に回避すべきだとして、幕府と長州との間をとりもとうとした黒田長溥の方針に対し、長州との接触は、幕府の嫌疑を受けることになるので排除すべきだと主張した。
これに対して勤皇派は、長州征伐の阻止工作を積極的に行うべきであると主張した。
結果は勤皇派の主張が通り、加藤司書・月形洗蔵らが奔走し、西郷隆盛らと連絡を取りながら征討軍総裁に働きかけ、ついには解兵に成功した。
この事により福岡藩では勤皇派の発言力が増し、勢に乗った勤皇派は更に一歩進んで薩摩と長州の調停を図るなどと、藩における比重を高めていった。
このとき西郷隆盛が筑前に来訪した際、月形、早川の両人は密かに西郷に会い薩長和解を説いた。
西郷も「いたずらに長州と内輪の争いをしている時ではない、天下一和に刷新すべき」と語ったという。
月形と早川は、長州の高杉晋作が筑前に来た時にも西郷と密会させ、その後、月形と早川は長州に入り、下関で再度西郷と高杉を密会させ、薩摩・長州・筑前の3藩をもって幕府の暴挙を防ぎ、三条実美ら8・18の政変で都落ちとなった公家たちの復権を実行しようとした。
ところが、筑前勤王党は藩内の弾圧にあう。
1865年(慶応元年)長州再征の命が下ると、五卿に対する幕府の態度が強硬となり、大宰府の五卿もいつ幕府から強制的に引き渡しを要求されるかわからない状況となってきた。
福岡藩では加藤司書が黒田長溥の不興をかって職を追われていたので、潰減の危機にあったのだ。
焦った勤皇派は、体勢を挽回しようとして五卿を薩摩に移して九州勤皇派の総決起を図ることを画策する。
もし藩主・長溥が同意しないときは、長溥を犬鳴山別館に押し込めて子の黒田長知を立て、計画の実現するという強行的なものだった。
しかし、事前に計画は露見して勤皇派は全員逮捕されてしまう。
自身を亡き者にしようとする勤皇派に対し、藩主・長溥は加藤司書・衣非茂記・建部武彦・斉藤五六郎・万代十兵衛・森勘作・尾崎惣右衛門等は切腹、月形洗蔵・梅津幸一・鷹取養巴・伊丹真一郎等は斬首、野村望東尼は姫島流罪など厳しい処分が断行する。
これによって筑前勤皇党は潰減、福岡藩における尊壌運動は挫折するとともに、福岡藩の西南諾藩における主導権も崩壊してしまい、これ以後、福岡藩は、薩摩・長州と離れて、譜代以上に佐幕的性格を鮮明にして幕末を迎えることとなった。
当然ながら月形洗蔵たちが目指した薩長同盟も夢に帰してしまう。
しかし、月形と生前から懇意にしていた土佐脱藩者・中岡慎太郎がこの夢を引き継ぐのである。
中岡は同胞の坂本龍馬にことを話し、月形たちが描いた夢は現実のものとなっていくのである。
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河上彦斎 1834年(天保5年)肥後藩士・小森貞助の次男として生まれる。
11歳で河上彦兵衛の養子となり、16歳で熊本城下の掃除坊主となる。藩校の時習館に通い、学問と剣の修行に励む。
彦斎は剣道の試合には弱く、いつも負かされていたと言う。
この頃、宮部鼎蔵らに出会い、肥後勤皇党の中に入り、勤皇の志に目覚め始めたということです。
藩主の参勤交代の供で江戸に行きますが、そこでペリーの浦賀来航を聞くのです。
不平等条約を結ばされる幕府に不安と憤りを感じた河上は、熊本に帰り、勤王学者・林桜園の原道館に入門。
同門に太田黒伴雄・加屋霽堅などの神風連の首領たちがいて親交を深めることになる。
1859年(安政6年)井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らを処刑する安政の大獄が起こります。
河上はこれに憤慨、より一層倒幕の意思を固めていくのです。
そして1860年(万延元年)桜田門外の変が起きます。
この事件で重傷を負った水戸浪士の森五六郎・大関和七郎・森山繁之介・杉山弥一郎の四人が、江戸の熊本藩邸に逃げ込み、役所に行くまでしばらく休養させてくれるよう頼んできました。
藩邸内は大騒ぎになりました。
そんな中、家老付き坊主として江戸にきていた河上は、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなしたのです。
河上は尊皇攘夷運動の先駆けとなった水戸浪士に敬意をもっていた。
1862年(文久2年)中山大納言諸大夫・田中河内介の紹介で清河八郎が肥後を訪問してくる。
清河は、肥後勤皇党の参加を説きに来たのだったが、最初、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤皇党員は八郎を信用をしなかった。しかし、河上は強く八郎に共鳴賛同し「呼んでいただければ、私はいつでも馳せ参じます。」と言い信用を寄せた。
清河が薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、河上、宮部らは藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の肥後藩が動くことはなかった。
しかし、島津久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
1863年(文久3年)8.18の政変で長州藩が京を追放されると、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、河上は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちとともに脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。
そんな中、肥後藩には衝撃的なことが起こる。
1864年(元治元年)6月4日、新撰組が池田屋を襲撃し、池田屋で宮部鼎蔵をはじめ河上の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助や高木元衛門、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の北添佶麿らが殺害されます。長州でその悲報を同志の大楽源太郎から聞いた河上は悲憤し、いそいで京都へ上っていったのです。
上京した河上は、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。
佐久間は長州・吉田松陰の師であったが、この時佐久間は公武合体論者であり、河上は暗殺することを決意する。
河上は「人斬り彦斎」と呼ばれていたが、確実に分かっているのは佐久間象山だけで、あとは誰が斬られたかは分かっていない。
元治元年7月11日、河上彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山を待ち伏せしていました。
参加したのは、因幡藩 前田伊左衛門、平戸脱藩浪士 松浦虎太郎、南次郎です。
外出先から戻ってきた象山は三条大橋のそば通ります。象山が角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかるのです。
足を斬られた象山は驚いてすぐさま鞭を叩き、馬を走らせます。
松浦虎太郎が横から出てきて追いかけるものの間に合いません。宿舎が目の前に迫ってきた所で河上彦斎が馬の前にいきなり飛び出しました。
馬はそれに驚いて棒立ちになり象山は落馬、間髪入れずに河上は初太刀を象山の胴に薙います。
象山が刀を抜こうとした瞬間、二の太刀が河上の頭を割ったのです。
追いついた松浦虎太郎が最後に一太刀浴びせ、佐久間象山は絶命します。
後日象山の本当の考えを知った河上は己のしたことに後悔し、悲観した。
そのせいもあってか、それ以後河上は人斬りをしなくなってしまったという。
佐久間暗殺の8日後、追い詰められた長州は決起し、「禁門の変」が起こる。
しかし、圧倒的兵力の差で敗れ、河上は長州に逃げ去ることになるが、長州征伐の折、肥後藩が幕軍として長州と対峙したことに怒り、肥後藩首脳を説得するために熊本へ戻ることを決める。
しかし、逆に脱藩した罪を咎められ投獄されてしまうのだ。
1年間入獄後、時代は大きく変わっており、幕府は大政奉還をし、王政復古の大号令が発せられていた。
新政府軍は鳥羽・伏見の戦いを経て、時代は明治へと移っていく。
肥後藩は慌てて河上ら勤皇志士を出獄させ、藩庁の役人に取り立て、時代に乗り遅れまいとする。
維新後、外交係に任命され河上は、名を高田源兵衛と改める。外交係として各地を回っているうちに、新政府に登用されたかつての同朋・志士たちは攘夷を捨て、開国政策の方向に進んでいることに愕然とし、新政府に反抗し、あくまでも攘夷を掲げる河上だったが、帰国命令がだされ、その後は「有終館」という兵学校を設立し、後進を育てることに尽力する。
しかし、新政府の方針に従おうとせず危険視されていた河上は、ありもしない容疑でを捕えられてしまう。
そして明治4年12月、河上彦斎は斬首される。
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幕末暗殺 Price879 円
人斬りペンダント/河上彦斎 Price8,000 円
幕末テロリスト列伝 Price559 円

11歳で河上彦兵衛の養子となり、16歳で熊本城下の掃除坊主となる。藩校の時習館に通い、学問と剣の修行に励む。
彦斎は剣道の試合には弱く、いつも負かされていたと言う。
この頃、宮部鼎蔵らに出会い、肥後勤皇党の中に入り、勤皇の志に目覚め始めたということです。
藩主の参勤交代の供で江戸に行きますが、そこでペリーの浦賀来航を聞くのです。
不平等条約を結ばされる幕府に不安と憤りを感じた河上は、熊本に帰り、勤王学者・林桜園の原道館に入門。
同門に太田黒伴雄・加屋霽堅などの神風連の首領たちがいて親交を深めることになる。
1859年(安政6年)井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える吉田松陰・橋本佐内・梅田雲浜らを処刑する安政の大獄が起こります。
河上はこれに憤慨、より一層倒幕の意思を固めていくのです。
そして1860年(万延元年)桜田門外の変が起きます。
この事件で重傷を負った水戸浪士の森五六郎・大関和七郎・森山繁之介・杉山弥一郎の四人が、江戸の熊本藩邸に逃げ込み、役所に行くまでしばらく休養させてくれるよう頼んできました。
藩邸内は大騒ぎになりました。
そんな中、家老付き坊主として江戸にきていた河上は、医者を呼び、茶の湯の接待をするなどして丁重にもてなしたのです。
河上は尊皇攘夷運動の先駆けとなった水戸浪士に敬意をもっていた。
1862年(文久2年)中山大納言諸大夫・田中河内介の紹介で清河八郎が肥後を訪問してくる。
清河は、肥後勤皇党の参加を説きに来たのだったが、最初、田中河内介の紹介とはいえ肥後勤皇党員は八郎を信用をしなかった。しかし、河上は強く八郎に共鳴賛同し「呼んでいただければ、私はいつでも馳せ参じます。」と言い信用を寄せた。
清河が薩摩藩主・島津久光を説得し、兵を率いて上京させることに成功すると、河上、宮部らは藩論を尊皇攘夷に導こうとしたのだが、佐幕の肥後藩が動くことはなかった。
しかし、島津久光公の真意は公武合体にあったため、不穏な動きを察知した久光公は粛清を命じ、寺田屋の変で粛清され、京都での挙兵は失敗に終わる。
1863年(文久3年)8.18の政変で長州藩が京を追放されると、警備にあたっていた熊本藩士たちも解散となるが、河上は佐幕の熊本藩に戻る気にもなれず、宮部ら尊攘派志士たちとともに脱藩、行動を共にするべく長州藩へ入ることになる。
そんな中、肥後藩には衝撃的なことが起こる。
1864年(元治元年)6月4日、新撰組が池田屋を襲撃し、池田屋で宮部鼎蔵をはじめ河上の同志でもあり、親しい友人でもあった松田重助や高木元衛門、長州の吉田稔麿・杉山松助、土佐の北添佶麿らが殺害されます。長州でその悲報を同志の大楽源太郎から聞いた河上は悲憤し、いそいで京都へ上っていったのです。
上京した河上は、長州追放及び池田屋事件の黒幕であった佐久間象山を暗殺する。
佐久間は長州・吉田松陰の師であったが、この時佐久間は公武合体論者であり、河上は暗殺することを決意する。
河上は「人斬り彦斎」と呼ばれていたが、確実に分かっているのは佐久間象山だけで、あとは誰が斬られたかは分かっていない。
元治元年7月11日、河上彦斎は同志を集め斬奸状をしたため象山を待ち伏せしていました。
参加したのは、因幡藩 前田伊左衛門、平戸脱藩浪士 松浦虎太郎、南次郎です。
外出先から戻ってきた象山は三条大橋のそば通ります。象山が角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかるのです。
足を斬られた象山は驚いてすぐさま鞭を叩き、馬を走らせます。
松浦虎太郎が横から出てきて追いかけるものの間に合いません。宿舎が目の前に迫ってきた所で河上彦斎が馬の前にいきなり飛び出しました。
馬はそれに驚いて棒立ちになり象山は落馬、間髪入れずに河上は初太刀を象山の胴に薙います。
象山が刀を抜こうとした瞬間、二の太刀が河上の頭を割ったのです。
追いついた松浦虎太郎が最後に一太刀浴びせ、佐久間象山は絶命します。
後日象山の本当の考えを知った河上は己のしたことに後悔し、悲観した。
そのせいもあってか、それ以後河上は人斬りをしなくなってしまったという。
佐久間暗殺の8日後、追い詰められた長州は決起し、「禁門の変」が起こる。
しかし、圧倒的兵力の差で敗れ、河上は長州に逃げ去ることになるが、長州征伐の折、肥後藩が幕軍として長州と対峙したことに怒り、肥後藩首脳を説得するために熊本へ戻ることを決める。
しかし、逆に脱藩した罪を咎められ投獄されてしまうのだ。
1年間入獄後、時代は大きく変わっており、幕府は大政奉還をし、王政復古の大号令が発せられていた。
新政府軍は鳥羽・伏見の戦いを経て、時代は明治へと移っていく。
肥後藩は慌てて河上ら勤皇志士を出獄させ、藩庁の役人に取り立て、時代に乗り遅れまいとする。
維新後、外交係に任命され河上は、名を高田源兵衛と改める。外交係として各地を回っているうちに、新政府に登用されたかつての同朋・志士たちは攘夷を捨て、開国政策の方向に進んでいることに愕然とし、新政府に反抗し、あくまでも攘夷を掲げる河上だったが、帰国命令がだされ、その後は「有終館」という兵学校を設立し、後進を育てることに尽力する。
しかし、新政府の方針に従おうとせず危険視されていた河上は、ありもしない容疑でを捕えられてしまう。
そして明治4年12月、河上彦斎は斬首される。
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