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幕末の志士たちに学ぶ。男とは!

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坂本龍馬に開国の必要性を説いた男、河田小龍

河田小龍は1824年、高知城下の土生玉助の長男として誕生しました。
小龍の父は土生家の養子であったので小龍は、祖父・金衛門の養子となり河田姓を名乗るようになるのです。
小龍は幼い頃から絵がとても上手で、13歳の頃から南宋画の画家・島本蘭渓に弟子入りして修行を積み、この時期に、雅号(筆名)を「小龍」としたそうです。
更に小龍は絵だけでなく学問に対しても熱心で、藩儒・岡本寧浦の下で儒学などを学んでいました。

そんな河田小龍に目を付けていたのが、吉田東洋です。
東洋は当時浦戸の船奉行であり、小龍の父親の上司という立場にあった。更に岡本寧浦とも交友関係であったため、小龍の絵の才能を見抜いていたようです。
東洋はある日、「京都に行って絵の勉強をしてはどうか」と提案し、小龍は京都の狩野派9代目・狩野永岳に弟子入りしました。ここでも才能を認められた小龍は、京都二条城の襖絵修復に抜擢されるなど、大活躍をするのだ。

京都で修行していた小龍は、長崎へと向かいます。
当時の長崎は日本で唯一外国との門を開けている場所で時代の最先端の場所だったのです。
河田小龍は長崎の地で蘭学などを学びながら異国情緒あふれる数々のものに触れ、また外国の目覚しい発展ぶりを知り、日本も開国し、早急に国際化しなければならないと痛感しました。

高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞」を開き、下級武士や町民たちに絵や学問を教えるのです。
この墨雲洞は、次第に世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場となっていき、多くの志士がその門を叩きました。
塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などもいたようです。
そんな小龍に運命を変える出会いが待っていました。

それはジョン万次郎との出会いです。
吉田東洋からジョン万次郎の取り調べを行うようにという命を受けるのです。
当時蘭学を学んでいた小龍であれば少しは英語が理解できると思ったのでしょう。
小龍は万次郎と寝食を共にしながら、徐々に理解を深めていくのです。
そして、万次郎から聞くアメリカの情報は小龍にとっては画期的な話ばかりで、このとき改めて開国への思いを強くしたのは間違いはないだろう。
この時、万次郎から聞き取った内容をまとめたものが「漂巽紀略」となる。

1853年()浦賀にペリーが来航する。
日本全土に激震を与えたこのペリーの来航は、当然ながら土佐の若者達の心をも刺激した。
開国を求めるアメリカに対し、小龍は 「現時点で彼らと戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを説く。
そんなときに坂本龍馬が小龍を尋ねてきたのだ。

小龍は開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を龍馬に話すのです。
この話に感化された龍馬は、その後しばらくして脱藩をすることになる。

脱藩した龍馬を小龍はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
日本が変わらなければならないと分かっていても行動を起せなかった自分と、変えるために何が出来るのかで行動を起した龍馬。
小龍には龍馬が羨ましく感じたのではないだろうか。

その後、小龍は土佐藩士の薩摩派遣に同行し大砲鋳造の技術視察などを行ったり、自ら製塩事業や鉱山事業に手を出したりします。しかし、いずれも失敗。居を転々とし貧しい生活を強いられました。しかし晩年は、京都の琵琶湖疎水工事に立ち会い、記録図誌の制作を行ったほか、内国勧業博覧会などに自らの絵を出品するなど再び画家としての活動を行う。
そして1898年 75歳にて生涯を閉じました。

龍馬に脱藩の決意をさせた河田小龍
自身の想いとは別に、行動を起せない自身にジレンマを感じていたのかもしれない。






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