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幕末の志士たちに学ぶ。男とは!

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先日京都に行ったときに、伊東甲子太郎率いる御陵衛士(高台寺党)の屯所にも寄って来た。

御陵衛士とは、孝明天皇の陵を守るための組織で、高台寺党とも言う。
孝明天皇は言わずと知れた攘夷論者で、その力は江戸幕末において大きな影響を及ぼしている。

1867年(慶応3年)伊東甲子太郎は思想の違いから新撰組を離脱、志し同じくする者を新撰組から引き抜いて御陵衛士を結成する。

離脱理由は、泉湧寺塔中戒光寺の長老 湛然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩、長州の動向を探るという事であったが、実は伊東は最初から新撰組を乗っ取るつもりだったのが、土方歳三近藤勇らの影響下が強いことで断念し、離脱したのではないかとも言われている。
最初は五条橋東詰の長円寺に屯所を構えたようだ。

この時の同志は弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一15人。
斉藤に関しては新撰組のスパイではなかったかといわれている。

他にも、茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎ら10名が合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の四人が抹殺され、残った6人が放逐される。

そもそも御陵衛士新撰組との間には友好的なものはなく、隊士の行き来を禁止する約束があったという。
当然といえば当然だ。
土方らにしてみれば、組を見捨てて新たに作った組織に協力できるはずもなく、伊東たちにしても、新撰組が嫌だから組を飛び出しているのである。
隊士が行き来できるわけがない。

そのことを知らずに新撰組を脱走して御陵衛士に加わろうとした茨城らは行き場所を失った形となった(新撰組を脱走したものは法度により屯所に連れ戻して切腹ということになっていた)。
茨木たちの切腹後隊で居場所を失い脱走をした武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された。

6月には山陵奉行 戸田大和守忠至に属し、屯所を長円寺から東山の高台寺 月真院に移し、禁裏御陵衛士の標札を掲げるようになった。
新撰組とは佐幕と勤王倒幕で袂をわかっただけに、新撰組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。
伊藤の行動は常に新撰組によって監視されており、伊東も勤皇倒幕に邁進しており、新撰組の情報は握っていたようで、坂本龍馬などに気をつけるようになどと忠告をしている。
そんな中、伊東甲子太郎は薩摩と通謀して近藤勇を暗殺しようと企む。
しかしこのことは、御陵衛士にスパイとして入り込んでいた新撰組の斉藤一の密告により明らかとなり、11月18日近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、酒に酔って帰路についた伊東を大石鍬次郎らが待ち伏せて暗殺した。
伊東は深手を負いながらも一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで絶命したという。
新撰組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとする。
これにまんまと嵌ったのが御陵衛士の面々だ。
遺骸を引き取りにきた藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名は、この待ち伏せしていた新撰組に切り殺されてしまう。

主要なメンバーがこの油小路事件で死んでしまったために御陵衛士は解散。
その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加していくことになるのだ。


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