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幕末の志士たちに学ぶ。男とは!

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象門の二虎といわれる男 小林虎三郎
象門とは佐久間象山の門弟のことで、 『象門の二虎』とは小林虎三郎ともうひとりは吉田松陰のことである。
小林虎三郎は象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と言わせるほど、小林は教育者だった。

小林虎三郎は長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれ、1851年(嘉永4年)藩命で江戸に遊学をし、当時兵学や砲学、洋学で有名な佐久間象山の門下に入ることになる。
小林から少し遅れて吉田松陰も入門してくるのだが、二人は切磋琢磨し互いも認め合う存在だったようである。
小林は入塾二年で塾頭になる。
しかし、この優秀な「象門の二虎」と言われた二人は、1853年(嘉永6年)ペリーの浦賀来航で運命が大きく翻弄されることになる。
1854年(嘉永7年)日米和親条約を結びに再び訪れたペリーに江戸幕府は下田を開港を決めるのだが、佐久間象山は有事の際に江戸から遠い下田開港に反対で、戦略的に横浜を考えていた。

小林虎三郎は象山の意向に従って、下田開港反対の建白書を老中の長岡藩主牧野忠雅に提出する。
象山は小林を使って、海防掛老中の牧野忠雅から幕府筆頭老中阿部正弘を動かそうとしたのである。
ところが小林は一書生の身でありながら国政に口をだしたということで、藩から帰郷謹慎を命じらてしまうことになる。

もう一人の『象門の二虎』吉田松陰は自らの思想のもとで行動を起していた。
その結果、松陰も黒船密航の罪を問われ、萩のに幽閉されてしまう。
松陰は幽閉された野山獄から師である象山に手紙を送っているのだが

「私が先生(象山)に初めて会ったとき、虎三郎が紹介してくれた。
虎三郎は天然痘で顔にあばたがあり私と同類。年齢も同じくらいで、名前も偶然「虎」で同じである。ただ違うのは虎三郎には才能があるが私にはないことだ。
虎三郎は先生との関わりで罪を負うことになったが、私は罪を犯して先生に迷惑をかけてしまった。」
という内容の手紙を送ったのだ。
松陰の密航に象山も連座するところとなり、伝馬町につながれ、そして国元の松代での蟄居となった。
こうして佐久間象山の門弟たちは黒船の来航を期に獄に繋がれることになっていく。

故郷の長岡に戻った小林は教育に心血を注ぐことになる。
時代は変革の一途をたどり、王政復古で成立した明治新政府は戊辰戦争を展開していく。
小林のいる長岡藩はこの戊辰戦争に敗北し、藩主に伴って会津藩、仙台に逃れる。
そして1868年(明治元年)小林は長岡藩大参事に抜擢される。
その後、長岡藩は小林虎三郎の精神論をもとに復興していくことになる。




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