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幕末の志士たちに学ぶ。男とは!

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時代の間で葛藤し続けた吉田松陰

時には過激に、時には自棄になったりしたこともある。
そんな松陰を見えないように支援してきたのが藩主 毛利敬親である。

毛利敬親は「そうせい侯」と揶揄されたりしていたが、その実は大賢は愚なるが如し」という。

18歳で藩主に就任するや、中級藩士の村田清風(大村益次郎)を抜擢し、借金が天文学的な数字になっていた財政の改革にあたらせた。
その時も自ら木綿の衣服を着用し、副食を一汁二菜にとどめて倹約の先頭に立っている。
その一方で、文武を奨励し、私学校令で庶民への教育普及に努め、種痘を実施している。

人事に非凡であり、改革派と保守派の賢才を代わる代わる登用し、足らぬ部分を補うことで長州藩を維新の原動力となる雄藩に脱皮させた。

毛利敬親はそんな人だったのだ。
だから吉田松陰の才能も見捨てるはずがなかった。
しかし、松陰の過激な行動は常軌を脱し、藩存続にも危うい様相を呈してきたのだった。
長州藩としてはなかなか思うように行動が出来ず、松陰自身藩に苛立ちを覚えたこともあったろう。
実際に松陰は憂国のあまり、謹慎の身を省みず、懲罰を承知で意見書を藩に送っている。

これを知った藩主 毛利敬親「寅次郎の心を慰めてやらねばならぬ。思うことをすべて書かせ、余に見せるようにせよ。採択するのは余じゃ。だれにも迷惑をかけはせぬ」といったのだ。

並々ならぬ裁量である。
普通の人物では出来ないことだ。
このことからも毛利敬親は「そうせい侯」ではないと分かるはずだ。

吉田松陰の考えや行動もこうした影でさせてくれる人がいたからこそのものである。



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