同盟を成功させた坂本龍馬は寺田屋に投宿した。
安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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安堵感もあったのだろう宿では三吉慎蔵が待っていた。
三吉は槍の遣い手で、長州藩が龍馬の護衛役に付けていた人物。
龍馬も心を許し信頼していた人である
夜未明、伏見奉行所の捕吏数十名が寺田屋を取り囲む。
ちょうどその頃風呂に入っていた お龍がいち早く気付き、2階の龍馬に知らせた。
(この時お龍は裸同然で二階に駆け上がったといわれている)
脱藩者である龍馬の姿を昼間に見られたのだろう。
捕縛士達が2階に上がってくる。
龍馬は三吉と二人で応戦しながら、隣家の屋根伝いに逃走し濠川沿いの材木屋に隠れた。
その間にお龍は薩摩藩邸に知らせに奔る。龍馬を隠した三吉も薩摩藩邸に走った。
これにより薩摩藩士が救出に向かい無事、伏見薩摩藩邸へ逃げのびることができたのだ。
このことを切っ掛けに龍馬はお龍と結婚をする。
仲介人は中岡慎太郎である。
手に傷を負った龍馬に対し西郷隆盛は、「傷の治療ならば、塩浸温泉の湯がいい」とし龍馬を養生のため薩摩に行くことを進めるのだ。
龍馬もこれに同意し、お龍を連れて塩浸温泉へと向かう。これが日本最初の新婚旅行とされている。
湯治を兼ね新婚旅行で薩摩を巡った龍馬。心休まるひと時だったろう。
そうこうしているうちに幕府は第2次長州征伐を敢行していく。
しかし、薩長同盟にて最新の武器を手に入れ、亀山社中などの海軍の協力などもあり長州は連戦連勝していくのだ。
長州軍は奇兵隊という武士以外の階級からなる市民軍がほとんどで、一般民衆が武士に勝利した瞬間であった。
1867年1月、龍馬は長崎の「清風亭」という料亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見することになる。
当時、薩摩、長州に大きく出遅れていた土佐は挽回策に必死であった。
亀山社中の土佐藩出身者は多くが土佐勤王党出身で山内容堂が勤王党を弾圧したとき後藤はその前線に立っていた人物である。
武市(瑞山)半平太も失脚に追い込んだ張本人の後藤との会談に土佐出身者は憤りを感じていた。
かたや後藤も亀山社中のメンバーは伯父吉田東洋の仇である。
龍馬は自らの思想の根底にある「日の本の国のために今なにをせにゃならんか」により
私怨私恨を押し殺し、長州・薩摩の連合にさらに土佐が加わればより強固な倒幕の土台が出来るとし後藤と会談するのである。
この会談により亀山社中は海援隊と名を変え土佐藩公認のものとなる。
龍馬や脱藩者たちも罪が許されている。
6月9日に後藤象二郎とともに藩船にて長崎を出航した龍馬は八ヶ条の時勢救済案をまとめ、後藤に提示する。
この「船中八策」は幕府と討幕派との武力衝突を避ける可能性を提示していた。
また、この文書は「大政奉還に関する建白書」の基案となり、明治新政府の「五箇条の御誓文」にもつながる注目すべき文書だった。
このころの龍馬は倒幕ではなく、徳川家をも一大名としてとらえ、日本の力に変えていこうとするものであった。
土佐藩主・山内容堂は後藤からこの案を聞き、将軍徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。
10月14日、大政奉還の上奏文は朝廷へ提出され15日、大政奉還は勅許された。
龍馬の唱えた大政奉還策は見事実現を見た。
14日に徳川討伐の勅許を頂いていた薩長は矛先を失う形になったのだ。
12月9日、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された
しかしこの12月9日には龍馬はもうこの世にはいないのである・・・・・
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