幕末の志士たちに学ぶ 男とは!

2008/07123456789101112131415161718192021222324252627282930312008/09

長州藩の村医の村田孝益の長男として生まれた村田蔵六(大村益次郎)。
200px-Masujiro_Omura_cropped.jpg

1842年(天保13年)防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下生となる。
1846年(弘化3年)には大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶことになり、適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。
洪庵は当時全国に名声が聞こえていた蘭学の大家でした。その塾頭にまでなったのは村田の力量はかなりのものだったでしょう。
村田の同窓には、橋本左内大鳥圭介福沢諭吉などをはじめ明治維新後新日本の建設に携わった人たちがいました。

1850年(嘉永3年)父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗ることになる。
翌年、琴子と結婚し、医者を開業しますが、口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大阪で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。
このことから、村田は自分は医者に向いていないと判断、転じて蘭学により兵学を研究し、兵学者として身を立てようと決心しました。

1853年(嘉永6年)ペリーが来航すると諸国は広く異国の知識を求められるようになってきた。
そんなおり宇和島藩が村田の学識を知り、蘭学・兵学を教授してもらうために招くのです。
村田最初の仕事は、軍備と軍器に関する翻訳書を作り、その講義をすることでした。
また生理学書によって人体の形質臓器の講義なども行ったそうです。

そんな中、長崎へ二宮敬作を連れて赴いて軍艦製造の研究を行った。
宇和島にもどった村田は提灯屋の前原巧山とともに洋式軍艦の雛形を製造する。

ちょうどこの頃村田蔵六と改名している。
1856年(安政3年)宇和島藩の藩主伊達宗城の参勤に従い江戸に行った村田は、麹町の新道一番町に家を求め、門人である金沢藩士安達幸之助の斡旋と伊達家の援助により学塾を開くことになる。塾の名を「鳩居堂」といい、蘭学・兵学・医学を教えていた。
村田の塾は大変な人気だったらしく、全国から生徒が集まってきており、そのウワサを聞いた幕府は講武所教授として招いた。時に1857年(安政4年)である。
宇和島藩や幕府、そして金沢藩に重用せられていた村田ですが、長州藩出身者にもかかわらず、このような優れた逸材が長州藩と関与していないことを遺憾に思った周布政之助青木周弼は、村田を長州藩に召しかかえる運動を行います。
1860年(万延元)村田は長州藩士になります。それは、従来どおり幕府や宇和島藩、金沢藩の用務も行うという約束付きのものでした。

ブログランキング参加中です。クリックして応援お願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ banner2.gif 7.gif b_02.gif
大村益次郎―軍事の天才といわれた男 (PHP文庫)大村益次郎―軍事の天才といわれた男 (PHP文庫)
(1998/01)
稲葉 稔

商品詳細を見る






コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://mn1552.blog15.fc2.com/tb.php/236-866c39d6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック